南大分マイタウン 本誌 第415号・令和2年10月1日

大友氏四〇〇年96 大友氏ゆかりの地を訪ねる30

NPO法人・大友氏顕彰会 理事長 牧 達夫

◎大友氏府内のまち(その四)

八、大智寺 大分市金池

 嘉慶元年(一三八七)、大友氏十一代親著が創建したといわれている。さらに明応二年(一四九三)十七代大友義右が寺院の修理を行い、京都南禅寺の才伯禅師を招いて住持とした。

 天正十四年(一五八六)の島津軍の侵攻時にも、大智寺は戦火を免れたという。

 境内に御影石造の三弥長者の大きな宝篋印塔(逆修塔といわれる)がある。三弥長者は実在の人物で、守田山弥之助氏定といい、金の大鉱脈を探り当て西国一の大富豪になったが、時の府内藩主日根野吉明の怒りを買う一件が浮上し、一族もろとも処刑されたといわれている。正保四年(一六四七)のことであった。

九、来迎寺 大分市錦町

 西山浄土宗、尋聲山専修院来迎寺は、室町期の文亀元年(一五〇一)、大友氏第十八代親治(大友氏第十五代親繁の五男)が勧請し、文忠梵栄上人により開山された。

 大友親治は、当時荒廃していた府内の町を復興させた名君といえる。

 文忠梵栄上人は備後尾道に生まれ、紀州総持寺で剃髪、研鑽の後、開祖法然上人の教えを継いで浄土宗布教の為、応仁の騒乱の中諸国を巡行した。豊後を文忠梵栄上人が訪れた折、そのすぐれた徳の高さと人望に深く感動した大友親治が府内の町に引きとめ、「来迎寺」を開山したという。

 開山以来五〇〇年を越えて現在の地に大友時代から続く数少ない古刹である。

〈来迎寺が創建された時代背景〉

 当山が創建された時代背景は、大友氏が南北朝の動乱、続いて起きる大内氏との抗争、さらにその間の一族による内訌(うちわもめ)が一五〇年もの長期におよび、領内は疲弊し、領民は窮乏し救いを求めていた。

 第十五代大友親繁がようやく領国を安定化したものの、後継の第十六代政親(親繁の長男)と第十七代義右父子が対立し、互いに死去するという凶事が起こり大友氏の危機となった。

 この時、一族、家臣を統合して領国の再生に立ち上がったのが第十八代親治であった。親治は第十五代親繁の五男として生まれたといわれ、幼少より肥後国端光寺の僧籍に入れられたが、還俗して帰国し、明応五年(一四九六)家督を相続している。

 親治は、豊後に滞在した雪舟に接するなど文教に親しみ、一族の確執の圏外にいたが、守護で第十八代当主になると、強引に一族と家臣の多くを討伐し、旧態然とした領民支配を一族と横暴有力家臣を一掃した。

 親治はわずか五年で領国の秩序回復を成し遂げ、大友氏の豊後国発展の土壌を築いた。来迎寺はこのような豊後府内の歴史的重要な時期に使命を担って創建された。

 当時の来迎寺を「府内古図」から推定すると、大友館から北約四五〇メートルに位置しており、当時の海岸線は来迎寺のすぐ北西に迫っていたことがわかる。

大友氏3.jpg

© 2023 by Name of Site. Proudly created with Wix.com