南大分マイタウン 本誌 第416号・令和2年11月1日

団塊世代1期生の思い出⑦

大友氏顕彰会副理事長 若杉 孝宏(ふじが丘在住)

遊びの中から自尊心が芽生える

 姉兄妹が7人いても男は自分と兄の2人のみ。父が身体障害者であることも関係してか、男を意識しだした6歳児にとって兄は絶対的存在であった。常に後を離れなかったというような記憶はないが、自分が家に居るときに兄が一人で遊びに出かけようとすると必ず母が「孝宏も連れて行きんさいよ」と言っていた。小学5年生の兄の遊び仲間は小学4・5・6年生が主で幼稚園児は足手まとい以外のなにものでもない。 「孝宏がおると、なーもできんに!」と言いつつも、たいがい連れて行ってもらったようである。さまざまな遊びはそのときに覚えたのだろう。かくれんぼや鬼ごっこはそれ以前だろうが、ぱっちん、ビーロン、釘ねんぼう、くちく、缶けり、竹馬作り・乗り、馬飛び、馬けり、竹とんぼづくり、ひごでの模型飛行機づくり、前の初瀬井路での魚捕り、谷や杉山、そして石切場の探険、壕(防空)での肝試しなど。その他、にくどんや石蹴り、花いちもんめなどあるが、これなどは女の子も一緒に遊んでいたから別に兄からだけということもなさそうだ。因みに兄はパッチンがめっぽう強く、みんなから巻き上げたおおっぱん、まるっぱん、こっぱん、しかっぱんなど石炭箱いっぱいに詰め込み保管していた。そのうちの何枚かをもらって他の子と勝負するのだが大体僕は巻き上げられる方だった。

 これらの遊びは最初にルールは教えてくれるが、完全に理解するまで教えてくれるのではない。あとは遊びの中で経験して覚えていくのだ。そうしないと仲間に入れてもらえない。”くちく“

などのゲーム性のある遊びは、仲間に入ってもハンディーがあるので”スボ“といって得点にはならない。そんな時文句を言ったり、まごまごして邪魔になると「孝宏もういい。帰れ!」となる(スボは自分一人ではなく、例の淸ちゃんなどがいた)。他人からいじめられてそのまま泣いて帰るようなことは決してなかったが、兄からこのような扱いを受けると泣いて帰って母に申し上げるのだった。そうして夕方兄が帰宅すると母が

「小さいんやからもっと丁寧に教えてやらんと」

 というような小言を言っていたようだ。

 6歳にもなるとそれなりの自尊心が芽生えてくる。外で遊び友達とのいじめなりケンカなりで泣かされたとき、絶対それを母に悟られまいと涙を拭き表情も普段通りになったと確信してから「ただいまー」となるのだ。母に「孝宏は弱い」と思われたくないのである。それでも子どものごまかしは母にはかんたんに見抜かれていた。後年母は、思い出話に「涙を拭いた跡が残ちょってなー」と笑いながら語るのである。 「孝宏の自尊心」を尊重して知らぬ顔をしてくれていたのだ。こんなことも自分の子育てに生かされている。  

 

便所紙がない!

 近所に同年齢の子どもがいたが、幼稚園に入園するまでの幼児期に友達同士で遊んだ(かもしれないが)記憶はない。因みに真ん前の茶屋呉服店に”たみちゃん“という女の子がおり、その2軒右隣のマツヤ商店には三浦きよのりちゃんがいた。8組には原産婦人科医院にひろのぶちゃん、9組には佐藤のきよちゃんとその隣に吉田ふさ子ちゃんがいて、同級生はその5人だった。それでひとり遊びの思い出は、尾籠な話ではあるが次のようなことがあった。   突然便をもよおし便所にかけこんだ。ところがお尻を拭くための切り刻んだ新聞紙がない(当時ちり紙などはおいそれとは使えない”高級紙“だ)。家にはばあちゃんしかおらず 「ばあちゃーん、紙持ってきてー」 「ちょっと待ちない」 ところがいつまでたってもばあちゃんは来ない。 「ばちゃーん、まだかえー」 「紙はねえ、もういいけん、そんまんま出ない」… 「ええーっ!」  いくら幼児とはいえ、その気持ち悪さは大人と同じ感覚である。それで仕方なくじわーっと立って肛門がすれないように、そろそろ歩いて店にある大きな戸棚の中にゆっくり入って、ななめに据わり、お尻が乾くまでじっとしていた。おそらく十分以上その状態でいたと思う。61歳の今でもその時の気持ち悪さが思い出されるのである。次は気色悪いこと。 

 往還に面した店頭から奥に続く母屋の居間は、店と台所に挟まれ日中でも外光が入ることはなく、いつも薄暗く陰気な部屋だった。そして夜になると60Wの裸電球一つのみで、夕食時などふすまにアブラムシ(ゴキブリ)がガサガサと音をたてながら這い回っていた。時にはそのアブラムシんやつが羽根を広げて飛び回る。そうなると女が多い家族だけに大騒動だ。ワーワー、キャーキャーと今度は人間が飛び回るのである。体が不自由だったせいもあるが泰然自若としていたのは父だけだった。

 とにかく不衛生な環境だったのだろう、我が家に限らず地域全体が。そして日本中どこも同じような環境だったはずだ。だから子どもがさまざまな病気をしたのもうなずける。 

 

大相撲の四横綱

 相撲取りで最初の記憶は四横綱だ。照国、羽黒山、東富士、千代の山だった。千代の山は二十四歳で昇進。当時は青年横綱と呼ばれていて、すぐあとに羽黒山、ついで照国が引退してその後、鏡里が横綱に昇進したのを覚えている。

 大人になって、同級生などにこの記憶を話すと、全員そんな記憶はなく、「覚えちょんはずねえやねえか」と異口同音に言われた。たしか5歳前後のことで普通はそうなんだろうと思う。

 そのあとは東富士、千代の山についで、鏡里、吉葉山。この四横綱の時代になると同世代はほとんど記憶に残っていると思う。そこで調べると、羽黒山が昭和17年1月〜28年9月、照国が18年1月〜28年1月、東富士が24年1月〜29年9月、千代の山が26年9月〜34年1月だった。

 そして鏡里が28年3月〜33年1月で、横綱昇進のニュースを太鼓腹とともに覚えていて、吉葉山の29年3月昇進時の記憶ははっきりある。色白でハンサム、女性の人気が高かった。

 栃錦は30年1月で昇進前の成績がもう一歩というか、いろいろあったらしく、満場一致ではなかったような記憶があり、次の若乃花は34年5月でもっとすんなりいかなかったようだ。しかし、「栃若時代」と呼ばれるように、昭和三十年代の大相撲の黄金時代は、栃錦と若乃花によって始まったのだった。

 ご多分に漏れず、我が家でもこの二人が人気だった。特に三女・英子は若乃花の大ファンで数点の絵を残している。


 

もうやん

「親の言うことをきかん子はモウやんにやるぞ」

 幼児に対し一番効き目のある脅し文句だった。顔色は浅黒く頭はぼさぼさ、髭ぼうぼうで破れたボロをまとい、目はうつろ。そんな容貌で大分市内を歩き回っていたらしい。別名「だいがくさん」。歳はたぶん四十代前後の中年男。小学校になっても行き会うとよけていた。別に子供に悪さをするわけではないが、幼児にとってその容貌が恐怖だったのだ。これは大分市内の子供たちの共通の思い出である。

 「もうやん」は一人だったのか?数人いたのではなかろうか。つまり物乞い、乞食だったのであろう。こじきは現在では差別用語で使えないが、いわゆるホームレスだ。戦争の後遺症ともいえる社会現象で、その他こんな人もいた。

 黒い礼服を勲章で飾り立て、行きかう人々に敬礼をしながら軍隊用語のような何やらぶつぶつ言って通り過ぎる。バスは無賃乗車だった。車掌も仕方なく黙認していた。そして竹町には真っ白な病院服で松葉杖をつきながらお賽銭箱を首から下げて物乞いをしていた「傷痍軍人」がいた。ハーモニカを吹いたりして”芸“を売っていたのだろう。戦時中にはやった軍歌や流行歌、童謡などだったが、曲調はその風采も相俟って切なく物悲しく感じたものだ。

 そういえば虚無僧も結構見られた。家々のまえで尺八を吹き、なにがしかの「お布施」を得ていた。なかには布施がもらえるまで数分粘る虚無僧もいた。このような光景は三十年代半ばまでで、その後今に至るまで僕は全く見ていない。しかし十数年前、どこかで見た気がする(何かのイベントだったか?)。

※虚無僧とは、室町時代の普化宗の僧・朗庵が宗祖・普化の風を学んで薦の上に座して尺八を吹いたから薦僧と呼んだという。また一説に楠正成の後胤・正勝が僧となり、虚無と号したからともいう。普化宗の有髪の僧。深編笠をかぶり、絹布の小袖に丸ぐけの帯しめ、首に袈裟をかけ、刀を帯し、尺八を吹き、銭を乞うて諸国を行脚した。普化僧。

小学校に上がると時折り兄とバスで街に出た。竹町のサクラヤ文具と鶴屋パンの前で「ゴム紐売り」のおいさんがいて、よく声音をマネした記憶がある。兄がよく似ていたので僕はそれをお手本にした。これも市内の子供たちの共通の思い出である。

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南大分軟式野球リーグ

10月18日葬祭場グラウンド

三ヶ田クラブ

004000 4

110000 2

クラブマルソウ

(6回時間切れコールド)(三)三代−吉良、古手川(ク)武生息、武生父−佐藤将

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