南大分マイタウン 本誌 第417号・令和2年12月1日
大友氏四〇〇年98 大友氏ゆかりの地を訪ねる32
NPO法人・大友氏顕彰会 理事長 牧 達夫
◎南蛮文化・府内(その二)
④伊東マンショの像
像の作者は長崎公園の平和祈念像で知られる北村西望である。
伊東マンショは大友宗麟の遠縁といわれ、一五八二年二月、宣教師がヴァリニャーノの勧めを受け、キリシタン大名の宗麟をはじめ有馬晴信、大村純忠は少年使節団をローマ教王に派遣することとなった。
この時伊東マンショは少年使節の主席正使であった。こうした歴史舞台に登場できたのも、宗麟の力が大きかったからと思われる。
伊東マンショを遡ると、実は一五七七年(天正五)、宮崎(日向)の伊東氏は島津軍の進攻により都於郡城を捨て、親戚の豊後の大友宗麟を頼った。宗麟の姪である阿喜多(伊東氏十一代義益の妻)とその子義賢、祐勝兄弟は宗麟のいる丹生島城に入った。が宗麟と血縁関係のない義祐らは野津の到明寺(宗麟の父義鑑の菩堤寺)をあてがわれた。その中に虎千代(マンショ)ら三兄弟と母がいた。
当時、野津の町は、宣教師ら異国の人が行き交っている町であり、マンショらも当初、戸惑ったにちがいない。
歴史は不思議である。マンショは縁あって島原の神学校で学び、そして一五八二年(天正十)二月、長崎港を出発してローマを目指すことになる。
二年半後の一五八四年(天正十二)八月、ポルトガルの首都リスボンに上陸し、ついに一五八五年(天正十三)三月、待望のローマ入りを果たした。少年使節団は、ローマ教王グレゴリウス十三世に日本人として初めて拝謁したのである。
少年使節団は訪問したヨーロッパ各地で大歓待され、西洋音楽や印刷技術も学んだという。
一五九〇年(天正十八)、少年らは青年になって八年半ぶりに帰国した。そして翌年の三月、宣教師ヴァリニャーノとマンショら四人の遣欧使節は、広大な城聚楽第で秀吉と謁見する。そして聚楽第の大広間で四人の使節は西洋音楽を合唱し、秀吉は上機嫌でアンコールをしたといわれている。
その翌日も秀吉は西洋事情をマンショに聞きただしており、また、マンショに自分の家臣にならないかと言ったという。西洋事情にくわしいマンショが気に入ったのであろう。マンショは「ヴァリニャーノ氏に恩義があるので」と丁重にことわったといわれる。
その後、マンショは天草の河内浦に行って修道と勉学に入っている。
一六一一年(慶長十六)、叔父の伊東祐慶の招きで日向飫肥城に入り、母や兄弟らと再会を果したが、翌年、長崎で死去したという。
