南大分マイタウン 本誌 第417号・令和2年12月1日

団塊世代1期生の思い出⑧

大友氏顕彰会副理事長 若杉 孝宏(ふじが丘在住)

南大分に集中。大分県農・水・産業試験場

 三施設とも県庁から4〜5㎞と大分市郊外のこの南大分にあって、立地として様々な条件が申し分なかったのだろう。

 まず隣にあった大分県水産試験場「鯉飼い場」。地元での通称は「こいけば」である。場長は稲田さんで丸坊主、色黒で小柄なおいさんだった。子供は二人、僕より二つ上のNちゃんと、僕より三つ下の弟がいた。もらい湯をしていた家だ。他の職員はいなかった。ここの目印は屋敷の角に立っていた一本杉である。春日八郎の「別れの一本杉」が流行ったとき、こんな杉やったんやろうなと思ったものだ。

 水産試験場と言っても淡水魚、それもほとんど鯉ばっかしだったと思う。大小の池が二十近くあって、鯉の成長の度合いで使い分けしていたようだ。幼稚園の頃、小さい池の仕切り壁、幅10㎝くらいで長さが4mぐらいを歩いていて池に落ちたことがあった。深さは50㎝ぐらいだったから事なきを得た。そんなに慌てず、すぐ家に帰ってばあちゃんから着替えさせられた。ただ、生臭かったようだ。

 当初我が家の敷地とこいけ場の敷地には、小さい排水路を挟んで数十センチの3段組みの石垣があった。ある日、その石垣を飛びそこなって鋭角の角で脛の前を打ちかけてしまった。骨が折れたのではないかと思う位の激痛を感じて脛を見ると、白い骨が見えて周りに血がにじんでいた。しかし、泣きはしなかった。家に帰って水で洗いオキシドールで消毒、赤チンを塗って包帯をした。小学3、4年生のころだったので、たぶん母か祖母が手当てしてくれたのだろう。誰だったか覚えていない。

 一年に1回か2回、池の水をすべて入れ替えるときがある。ほとんど水が抜かれた底の泥水の中を、背びれをくねらせながらのたうち回る大きな鯉を網ですくって別の池に入れる作業が見ものだった。2、3人手伝いに来ていた人がいたようだったが、あまり覚えていない。水は初瀬井路から取り入れるのだが、昭和三十年代も半ばを過ぎたころは水路の水が汚染されはじめ、それから数年後に閉鎖された。

 「こいけば」は、大正4年に開設され、昭和42年に閉鎖とあった。正式名称は、大分県水産試験場・南大分養魚場である。その後、組織改革で同じような性格の養魚場はないようだ。

 その土地は永興奥のSさん所有で、その後アパートが建って現在に至っている。

 農事試験場は既述したのでここでは漏れたものを記述する。

 場所は葛城商店の角を左折し、踏切を渡って30〜40メートルの場所に正門があった。母からヤギの乳をもらいに、ここにやらされた思い出がある。時々竹の上や上村の連中との遊び場にもなった。それから、中学のクラスメートSK君の親が勤めていたことを思い出した。

 次は産業試験場だが、永興と竹の上の境にあって、ここは養蚕施設でもあった。祖母が少しでも家計を助けるため、蚕が繭を作るため直径1メートル、厚み10センチぐらいのトラス状の編み物を藁で編んでいた。これを蔟と言うらしい。数個まとまると永興谷の首藤家に届けるのだ。僕はよく自転車で納品に行かされた。母に言わせるとばあちゃんの蔟は編み方が緩く、品質が良くなかったらしい。母も時折り編んでいたからそれが分かるという。

 試験場にはかなり広い桑畑(桑園)があって、秋になると実がなる。いわゆる桑イチゴである。蚕には不要なもので、近所の子供たちのおやつになるのだった。甘酸っぱく、野イチゴの感覚で食べていたが、いま食べるとどうだろうか。数粒食べると口周りがみんな黒っぽい紫色になった。

 因みに絹糸は戦前戦後を通じ、日本の重要な輸出品だった。冨岡製糸工場が世界遺産に登録され、現代人にも広く知られるようになった。また、養蚕は明治以降、皇后の仕事になったということだ。皇居に養蚕施設があり、美智子皇后の重要な仕事だったらしい。そこで取れる絹糸は、正倉院の宝物の絹布の補修に使われているという。

 

いねじの(稲刈作業のこと)

 あれはいつの日だったのだろう。動画のようなおぼろげなメルヘンチックな記憶がある。それは小学校に上ってからだったろうか…。

〜しーずかーなー しーずかな さーとのあーきー 

おーせどーにー きーのみのー おーちるーよはー

あーあーかーさんと たーだふたーりー

くーりのみー にてーまーす いろーりーばーたー 

 刈り取った稲の束に収めきれないこぼれた稲藁を集め、田圃のあちこちで焼いたけむりが辺り一面にたなびき、うっすらと遠くの山・霊山をぼかしている。

 東院を過ぎ、片面に続く山際の道を僕ら姉弟が歌いながら家路をたどっていた。僕らは次から次に童謡や唱歌を歌いながら、なにがしかのお土産を手にし、秋の夕やみせまる景色の中を三ケ田町の我が家に向かってほぼ一里半の道を歩いていた。その道沿いに井手(初瀬井路)が流れていた。宮苑(東院)の親戚・祖父政喜の実家である葛城家の稲刈りに若杉家が総出で手伝いに行った帰り道での光景である。葛城家は賀来川(由布川)沿いに走る道に面して家が建っていた。その家は今も同じ場所に建っている。その日の思い出は断片的で、以上記したこと以外はおぼろである。

 そんな思い出もあるのに、小学校の高学年になると遊ぶテリトリーが深河内まで広がるが、そこが限界で、接する片面から先は別世界であった。というのは当時、この一帯のある部分(上餅田)が田圃ではなく、湿地帯が残っており、葦か七島イみたいな背丈の高い草が茂っていた。真ん中辺が島のようにこんもり盛りあがり、松が2、3本生えていて根元にはお墓か石碑かがあった…?夕方にはタヌキやキツネが出てきそうな、子どもにとって恐ろしげな場所だったからだ。※もしかしたらこの風景は自分の妄想かもしれないが…。

 この辺り(宮苑・東院・片面・賀来)は近年ウオーキングでしょっちゅう歩いているが、市内の他の場所に比べ、遠望は当時の面影が残っていて、歩くたびに幼い日の光景が脳裡に浮かんでいた。

ところが10年ほど前、賀来駅近辺が区画整理され、様変わりしてしまった。幼い日の記憶にある景色が年とともにひとつひとつ消えていくのが淋しい…。

 ところで初瀬井路の前身は「国井手」といって、大友義統が開削した(1580年代初頭)。暗愚な領主との評判があるが、いいこともしている。

「初瀬井路」は江戸時代(慶安三年・1650年)の府内藩主の日根野吉明が、庄内の櫟木(大分川)から取水し、挾間を経由して東院で国井手に合流させ延長したものだ。

 

永興の石切り場

 冬になると永興の奥の”谷“に探検しに行く。そこは小さな渓谷を成し、小学生には手ごろな冒険が体験できる遊び場である。そんなときはゲートルを巻いていくのである。当時は戦後間もないころであり、ゲートルは各家にあって脛を保護するのに最適なものであった。そしてその(城南神社の西北)奥に石切り場があり、ここも高さが7、8mとさほど高くなく、低学年の度胸を試すのにもってこいの場所だった。ロッククライミングよろしくロープではなく縄を使ったりして上り下りして遊ぶのだ。そこから先は「ノジ・野地」という地名の茅場みたいなススキや雑草が生い茂る原野になっていて、真中を庄の原に通じる一本道が続いていた。小学低学年は近付けない別世界であった。

 吉川英治の「宮本武蔵」の一場面に、ススキが生い茂る野原の中に1本松があり、その一帯で吉岡一門と決闘を演じ、数十人を相手に闘ったという一節を読んだ時、ここの風景が浮かんだものである。この一帯は、昭和三十九年に開発され、大分県下初で最大の住宅地・城南団地となった。

 ところで石切り場のことだが、顕徳町で発掘・整備中の大友氏館の庭園の池(令和2年4月完成)で使用されていた景石の一部が「永興石」という。四百数十年も前にここから切り出されたものか、違う場所だったのか、今となっては確かめようがない。歴史にロマンがなければ面白くない…。ここだったと信じよう。

 

メルボルンオリンピック

 1956年秋(11月〜12月)オーストラリアのメルボルンで開催された。小学4年生だった。今でも記憶にある印象的なのは、水泳の山中毅とマレー・ローズの対決だ。山中の方が4歳ほど若かったと思っていたが調べると、二人とも1939年1月生まれの同年齢だった。出場時は17歳直前の16歳。持ち記録も拮抗していて、まさに絵にかいたような「好敵手」同士でマスコミが煽り立て、両国民が熱狂したのもうなずける。

 ネットで調べると二人はカリフォルニア大学で一緒(オリンピック以降だろう)だったとあり、オリンピックではローズが金、山中が銀。五輪以外の大会では「彼の方が強かった」と後年、ローズが語っていた。4年後のローマ大会でもローズが勝った。

 どの大会で出した記録か定かではないが、山中が400メートル自由形で4分16秒の世界新で優勝したことを覚えている。200は2分0秒2。当時は夏に日米対抗と日豪対抗水泳大会があって国民を沸かせたものだ。

 メルボルン大会の日本は水泳と共に体操でも活躍した。小野喬が各種目で金メダル。戦前からの伝統を守り「体操は日本のお家芸」を確立した。

 ところでメルボルンオリンピックに関する楽曲があった。よく覚えていて今でも歌える(一番のみ)。ただ曲目が分からなかったので調べてみると「若い選手」と言う。津村健、春日八郎、若原一郎が共演、1・2・3番を各自が歌っている。数年前、ユーチューブで聴けたのだが現在はアップされていない。

〜カモメが 飛ぶとぶ海遠く 若い選手の夢も飛ぶ

あーあー 風薫る メルボルン

日ごろ鍛えた この腕を 力を友よ 見せてくれ

 2020年東京オリンピックが新型コロナウイルスの世界的蔓延によって1年延期となった。下手すると中止も視野に入れなければならないだろう。オリンピックを地元日本で初めて体験する世代にとって、その不運に同情せざるを得ない。

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