南大分マイタウン 本誌 第413号・令和2年8月1月

大友氏四〇〇年94 大友氏ゆかりの地を訪ねる28

NPO法人・大友氏顕彰会 理事長 牧 達夫

○大友氏府内のまち(その二)

三、万寿寺跡 大分市元町

 万寿寺は徳治元年(一三〇六)、大友氏五代貞親が博多の承天寺(臨済宗・福岡市)の直翁智侃禅師を開山に招いて創健したと伝えられている。

 場所はいまの大分川左岸の宗麟大橋から日豊線に至る十号線と大分川の間一帯で、南北約三六〇メートル、東西二五〇メートルもあり、大友府内のまちで大友館をもしのぐ寺域であった。いまは市民のグラウンドになっており、少年のサッカーや高齢者のグラウンドゴルフの場となっている。

〈万寿寺の規模と寺格〉

 室町幕府は全国の主だった臨済宗寺院を宮寺として位置づけ、五山・十刹・諸山の三段階に分けて序列化した。

 万寿寺は大友氏の庇護を受けて栄え、建武年間(一三三四〜三八)には、十刹に列せられた。以来、室町時代を通じて五山に次ぐ寺格の寺院として栄えた。九州内では筑前博多の聖福寺が同じ十刹であった。

 万寿寺は七堂伽藍(法堂・仏殿・三門・僧堂・庫院・東司・風呂)が備わっていた他、惣門・土地堂・祖子堂・衆寮(読書室)・塔頭・寮舎など多くの建物もあり、僧侶も一五〇人ほどが学んでいたといわれ、文字どおり十刹にふさわしい寺院であった。

〈万寿寺と大友氏〉

 万寿寺は前述のように宮寺として十刹に列せられて以降、住職の任命権は基本的には室町将軍家が握っていた。しかもこの室町幕府体制下においては、万寿寺住職の格は大友氏の歴代当主よりも上位であったという。

 この状況を如実に物語っているのが、「當家年中作法日記」(大友氏二十二代義統が常陸国(茨城)水戸に幽閉していた時に著わした大友氏の儀式・年中行事)である。

 この「作法日記」によると、正月十三日の大友氏当主による蔣山万寿寺への「年頭参詣」がある。つまり大友氏当主自らが万寿寺へ赴き、正月の祝を受けたという。その際万寿寺住職は大友氏当主を迎えるには外で出迎えるのではなく、方丈の座敷で坐して待っており、当主の退去の際においても座敷から出て見送りをしなかったという風に記されている。

〈大友氏と府内祇園祭〉

 かつて大友氏が主宰する府内祗園祭は華やかでかつ盛大なものだったようで、京都祗園会に劣らぬほどだったといわれる。現在では祇園社は弥栄神社といわれ、祗園祭は地元の子供(小学校四年〜六年生)の笛・太鼓、子供神輿、それに大人によるお獅子等が加わって古国府町内を巡行する「夏祭り」として引き継いでいる。

 祇園社は、大友時代にはいまの岩屋寺石仏周辺に創建されたといわれる。祇園社の勧請は正治二年(一二〇〇)、大友氏初代能直の家臣藤枝氏と山崎氏が執り行なったという。

 この年の五月末、両氏は豊後府内に到着。六月七日に京の祗園会と同じように布や青銅を献じる式典を行なった。六月十五日辰の刻(今の午前八時ごろ)、仮殿で八重垣という舞曲が神官により奏せられ、同日申の刻(今の午後四時ごろ)、藤枝氏が玉串を捧げ、神官を供奉して本宮へ遷宮したという。これ以降、藤枝・山崎両氏がこの神事を司どった。

 ところで『豊陽志』によると、大友氏八代・氏時が足利将軍の許しを得て、この祗園会の神事を「大友家大切ノ神事」として大友家家臣を勤めることとなったという。

 当時、氏時は京都大谷に「宿所地」を所有し、佐女牛大路にも六ヶ所もの土地を有しており、南北朝期の九州の守護大名当主として、京との政治・経済的な結びつきを意識していることが分かる。つまり、京の祗園会を盛り上げる山鉾巡行を意識して府内祗園会を実践するのも、中央の政治・文化を強く意識した氏時の政治姿勢とも言える。

 祗園会の山鉾の神事は、藤枝・山崎両氏を長とする大友家家臣七苗(藤枝・山崎・吉本・小林・秦・安部・矢野)が頭人として執り行ったという。

 この豪壮な十二基の山鉾巡行の他に、府内祗園会にはもう一つ重要な神事があった。それは社殿から御旅所までの神輿渡御である。神輿の担ぎ手は、津守村の大友氏の直轄領の中から出していたという。

 この「御旅所」は「祗園川原」または「上川原」と呼ばれた所で、当時五千軒の家屋が軒を連ねていたと言われる大友府内の町の中で広大な境内を持っていた大友家の菩提寺・万寿寺周辺の川原を、「祗園川原」あるいは「上川原」と呼んでいたようである。

〈山鉾巡行の桟敷(さじき)について〉

 前述の『當家年中作法日記』の中に、府内祗園会の六月十五日の山鉾巡行の「桟敷」に関する記述がある。「十五日、祗園会の事、六月朔日より宿老奉書を以桟敷奉公衆被申付候。近年ハ大津留大和入道、田吹山城入道、松崎左近入道、木付治部丞にて候。屋方桟敷のむかふハ蔣山(万寿寺のこと)也。十間の桟敷也。左右ハ宿老をはじめ分限通之衆次第也。諸寺家同前に、うらむかへニかけてうち候(中略)祭礼の規式、諸郷庄より調え、税所能々存知候也。十間の桟敷、笠和郷、山香郷にて一年かゝりニ調候。(以下略)」

 これをわかりやすく云えば「六月一日に大津留・田吹・松崎・木付の四名が桟敷奉行に任命される。彼らの任務は、山鉾が練り歩く各町々に設置される見物桟敷を、全体的に統括する業務であったと思われる。宗麟の頃は、六月十二日早朝に飾り付けた傘鉾を大友館の前に持って来ていたようである。

 特に「屋形桟敷」は大友家の菩提寺・蔣山万寿寺の前に設置された。そこは十間の広さを有し、大友家当主の座席を中心に、その左右に重臣たちの座席が陣取られた。

 有力な寺庵も屋形桟敷の裏(万寿寺側)や対面(町屋側)に造られ、また家格の高い家臣も広い桟敷を占有した。

 神事の準備は税所氏の差配のもと、豊後国内各郷荘単位で勤めるのが慣例で、特に屋形の十間の桟敷の準備は笠和・山香の両郡が一年交代で担当した。

〈船鉾〉

 この祗園会の山鉾を見物する民衆に対し、大友水軍をアピールするイベントも披露された。それは祗園会が始まる頃、大友氏の奉行人・田北親員・山下長就両氏が大友義鑑の時代臼杵荘政所宛の書状が『薬師寺文書』の中にある。それによると、薬師寺氏に対し、例年のように兵船を準備するようにとの御用向きである。

 薬師寺氏は、津久見を本拠とした大友水軍の一員で、海部水軍衆の中核を担っていた。この「御用向」とは何であったか。その一つは祗園会がある時、祗園川周辺の水上警備がある。あと一つは、山鉾を見物する民衆に対し、勇壮な船鉾を見せることにあったのではないかといわれている。これは民衆に大友水軍をアピールする絶好の機会であったと考えられる。

 これらをみると、大友氏が主宰した祗園会がいかに盛大でありかつ領国経営の上でも重要であったかが分かる。

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