南大分マイタウン 本誌 第414号・令和2年9月1日

団塊世代1期生の思い出⑤

大友氏顕彰会副理事長 若杉 孝宏(ふじが丘在住)

こどもの遊び

 姉兄を含め、当時近所の5、6歳年上の子ども達がよく遊んでくれていた。女の子は一番上が3番目の姉・英子と岩田のやっちゃんで中2、次が4女・容子と岩田のよし子ちゃんが小4、釜屋・四童子のはるみちゃん(この時期いなかったかも)と小野のひで子ちゃんが小3で猪原のみさちゃんが小2。同級の茶屋のたみちゃんは遊び友だちとしていなかったようにある。乳兄妹である岩田のひろ子ちゃんは、この時期まだ引っ越してきてなかった。このころの思い出だろうと思うが宮子からはよく「ヤッポンポン」といって仰向けになり、自分の足の裏に僕をのせて「高ーい、高ーい」をしてくれていた。 

 外での遊びは集団での縄跳びやにくどん、石蹴り(いっけんいっけんぱー)、はないちもんめなど。室内ではおっさしや、網取りや、ビタ、カルタ、やさしいトランプ、双六などであるが夏と冬とでは違っていた。よくわけの分からないものに”おなべふ、おなべふ“と呪文を唱えながら、両手の親指を交互に押さえながら 手首から肘に向かって、肘まで行ったら腕を曲げこつんと頭を叩いていたことだ。また縄跳びとおっさしの時は歌を歌っていたので次に記してみる。だいたい覚えていたが子ども時代は単語としての認識がなかった。改めて歌詞を見ると、なるほどなと納得した。昭和51年に発行された『さぶた−うったちの百年−』にはその他の遊びの唄も載っていたので引用、ただし僕の記憶にないのは割愛する。

▼縄跳びの唄

一番はじめは一の宮 二また日光東照宮 三また佐倉の宗五郎 四また信濃の善光寺 五つ出雲の大社 六つ村々天神さん 七つ成田の不動さん 八つ八幡の八幡宮 九つ高野の高野山 十でとうとう心頭で あれほど心願かけたのに浪子の病はよくならぬ 武夫がボートに移るとき浪子は白いハンカチを、 打ち振りながーら「ねえあなた 早く帰ってちょうだいね」 ゴーゴーゴーとなる汽車は武夫と浪子の死に別れ 二度と逢えない汽車の窓 泣いて血を吐くほととぎす 泣いて血を吐くほととぎす 

▼おっさしの唄

いちれつ談判破裂して、日露戦争始まった、 さっさと逃げるはロシアの兵 死んでも尽くすは日本の兵 5万の兵を引き連れて 6人残して皆殺し  7月8日の戦いは ハルピンまでも攻め寄せて クロポトキンの首を取り 東郷大将ばんばんざい 十一いちごの ごまめいり

十二は新田義貞で  十三 三十三間堂 十四は四国の金比羅さん  十五は御殿の八重桜 十六ロシヤの大戦争  十七 七士の墓参り 十八 浜辺の白兎 十九は 楠木正成で 二十は 二宮金次郎 金次郎!

まるまる一こん貸しました  

▼コマ回しの唄

息ながしようか しょうくらべ  堅木のコーマは割れゴーマ ベニさんがヘコかーいた

▼しりとりの唄

日本の乃木さんが凱旋す すずめ めじろ ロシヤ 野蛮国  クロポトキン 金の玉 負けて逃げるはチャンチャン坊  棒でたたくは犬殺し 死んでも命のあるように

▼まりつきの唄

一かけ 二かけ 三をかけ 四かけて 五かけて 橋をかけ  橋の欄干手を腰に はるか向こうを眺むれば  十七・八の姉さんが 片手に花持ち線香持ち  姉さん姉さんどこ行くの  私は九州鹿児島の

西郷隆盛娘です  明治十年戦争に 切腹なされた父上の お墓参りにまいります  お墓の前で手を合わせ なむちん なむちん 拝みます  拝んだあとから火の玉が ふわりふわりと  じゃんけんぽん!

 

学芸会は準主役…

 3学期は1年間の集大成、学芸会がある。どちらかというと内向的な性格だと思っているが、どうしたことか主役級に抜てきされたのだ。”主役級“というのはたぶんである。芝居時間のすべてに出演したようには記憶していないからだ。

  僕の役は猟師。印象に残っているシチュエーションは、エンディングで舞台のそでから後ろ壁(バックスクリーン?)の中央まで走っていき、そこから舞台の右前方へ走って、担いでいた鉄砲を右前方上に向かって構え、

「野も山も真っ白だ!」

と叫んで片足を2度踏みならし、同時に「ドン!ドン!」と大声で叫ぶのだ。次は左手に走っていき、同じことを繰り返す。  単純な演技であったが、それからしばらく校庭や帰り際など、5、6年生が僕を見かけると、よく真似をされ冷やかされていた。出来不出来は別にして上級生に強い印象を与えていたのだろう。

 

昆虫食か?

 今では信じられないが、家の前を流れる初瀬井路にはフナやかますか、うなぎやハエやドンク(コ)など川魚がたくさん生息していて子どもの手づかみでも獲れた。時としてそれが夕餉の食卓にものった。特にありがたかった(母が)のは明磧橋のたもとのテボ浸けで獲れたうなぎであった。記憶ではかなり頻繁に獲れていたような感じだったが兄によると当時でもたまにしか獲れなかったと言うことだった。

 テボ上げは早朝の新聞配達終了直後かその前、遅く行くとだれかに取られていたりするのだ。実際に何度か付いて行き、兄の「やられた!」というのを聞いた事がある。

 そんなある日2、3匹テボの中に獲れていた記憶もある。母が喜んだのは言うまでもない。そのときのかば焼きの味は大人になっても忘れられず、長い間自分の好物だったが、40歳前後あたりから、ぶよっとした感触の養殖うなぎしか食べられなくなり、今ではまったく食べたいと思わない。アユにしてもそうだ。子ども時分はほとんど記憶が無いが、社会に出たときでもたまにしか食べたことはない。初めて食べた時、魚がスイカかキュウリの風味がするのを不思議に思い、また驚いたのを憶えている。

 それがいつ頃だったか、大人になって友人になった湯浅の慎ちゃんがアユ釣りの名人で、季節には何度か家族ぐるみその御相伴に預かっていたが、徐々にあのスイカとキュウリの香りが薄くなっていったのを感じていた。川底の石ゴケが少なくなったのが原因という。自然は正直だ。

 食べ物の思い出ではナマズやタニシ、極めつけはイナゴである。聞けば僕と同じ世代でイナゴを食べた人は皆無であった。

 稲刈り直後、田圃には落ち穂を餌にするのかイナゴがあちこち飛び回っていた。それを網で捕まえるのだが、数十分でいっぱい獲れた。家に持ち帰った数十匹の羽根と足を取り、お縁に新聞紙を広げその上に一晩置くのだ。腹の中をきれいにするためである。その夜はイナゴがおかずとなる。空炒めしたイナゴは赤くなり、エビかカニのような香ばしい味がしておいしかった。我が家では末っ子の和美はどうか知らないが共通の思い出である。現在、昆虫食は栄養価が高く見直されていると聞く。

 

貸家の人々

 母屋は大きな蔵で、それにくっついて建ててあった中二階つきの別棟の12畳はよく人に貸していた。やはりその頃だと思うが矢野一家が住んでいたはずだ。青ばなを垂れたほぼ同年代の男の子(ケンちゃん?だったかな)がいた記憶がある。 

 次に貸したのは昭和30年だったと思う。生野一家でここの兄姉は英子、昌宏、そして僕と同年齢の子どもがいた。名前は忘れたが男、女、男でその一番下の子がまさひろといって僕と同級だった。体格はほぼ同じだったが相撲が強くあまり勝った記憶がない。生野家は1年くらいで金池町に移転していった。 同時期に母屋の2階の北側の12畳の部屋にはM先生一家がいた。M先生は父と同級で幼友達という。ここには昌宏と同級のN子、自分と同級のMT子、妹・和美と同級2歳下のMMという名の3人姉弟がいて、MT子ちゃんは落花生が大好物で遊びながらいつも食べていた。女の子はゴム飛びをして遊ぶのだが、ほとんどがスカートの裾をズロースに挟んで飛んでいた。特に、MT子ちゃんはその印象が強い。 

 そのM家が出た後はH一家だ。僕が小学校6年生時の昭和33年だと思う。2歳下にKちゃんという体は小さいがとても敏捷な子がいた。子どもながらに、この家族は我が家よりも苦しい生活をしているのが分かった。母親は非常に気だての良い素直な(いま思えば)おばさんだった。父親はよく知らないが大工の手伝いのような仕事ではなかったかと思う。定職はなく日雇いに出ていたようだ。僕よりも4歳上の姉がいて、Kちゃんの下にMという弟がいた。僕はよくKちゃんを(K坊と呼んでいた)仲間として小学生のころは遊んでやっていた。思い出がふたつある。我が家の貸家に来て1年後ぐらいになる、僕が中学1年のときだった。

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