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​平成30年9月1日 第390号5P

大友氏四〇〇年「71」大友氏ゆかりの地を訪ねる5

NPO法人・大友氏顕彰会 理事長 牧 達夫

○志賀氏

 志賀氏は、大友初代能直の八男、能郷を祖とする大友一族の名門であった。もともとは大野荘志賀村を本貫としたので、志賀氏を称した。

 当初は大野荘志賀村南半分地頭職であったが、のち、直入郡代官職となり、戦国期には本拠を岡城に移し、南部最大の領主として勢力を拡げた。

 志賀氏の初代能郷のあとは泰朝が継ぐが、弟の禅秀が風早深妙(大友初代能直の妻)から近地名地頭職や泊寺院主職などを与えられたので、志賀氏の庶家となり、のちに南山城(白丹)に本拠を移し、本家(北志賀)に対し南志賀氏と称された。

 志賀氏は蒙古合戦や建武の内乱時に大友宗家に従って戦功を挙げ、さらに南北朝期、玖珠城や高崎山合戦等でも北朝軍の有力武将として活躍し、名を高めた。

 その後、北志賀氏は直入郡の代官職として竹田に入部するとともに、岡城を本拠とする。領地は大野、直入の他豊前、筑後、筑前、日向、肥後まで拡大し、大友一族の中で国東の田原氏と並ぶ権勢を誇った。

 志賀親守は宗麟・義統の時代、加判衆(重臣)をつとめ、肥後国方分にもなり、大友氏の有力重臣のひとりであった。

 だが、天正六年(一五七八)の日向での豊薩戦争では、志賀氏は他の南部衆とともに肥後口搦手軍として出陣したが、軍勢はほとんど動く気配がなかったといわれている。何故か、南郡の武将らは大友氏の日向遠征に反対だったとされ、このころから大友氏に離反する兆しがあったのであろう。

 そして天正十四年(一五八六)の島津軍の豊後侵攻にあたって、志賀親守・親孝は他の南郡衆と同様島津氏に内応する。その中にあって親孝の子で若い城主の親次は岡城に家臣らと籠り、島津の大軍に敢然と立ち向かい撃退せしめる。のち秀吉から大いに賞され、親次と岡城は天下にその名を高めた。親次は大友宗麟の孫でキリシタンであった。

 志賀親次は大友氏滅亡後、福島正則や小早川氏、毛利輝元に仕え、終焉の地は、山口県宇部市で、大朝の岡屋敷に「岡城主志賀小左衛門親次之墓」と彫られた墓碑が立っている。また、親次の子孫はその後、長崎浦上・淵村に住み、江戸時代歴代庄屋として命脈を保っている。筆者はこれまで二度ほど長崎に取材調査しているので、いずれこの詳細を記述したい。

○志賀時代の岡城

 伝承によると、岡城は文治元年(一一八五)、源平合戦に勝利した源義経が兄頼朝と仲違いしたため、豊後武士の雄・緒方三郎惟栄がその義経を豊後に迎えんとして築城したといわれている。

 惟栄は義経ら一行を守って摂津国の大物浦(現尼崎)を兵船で豊後を目ざし出港したが、このあと天候が急変して嵐となり、船団はバラバラになり難破してしまう。惟栄ら兄弟は捕えられ、上洲(群馬県)沼田荘に流罪となる。義経は逃避行の末、東北平泉で兄頼朝から討たれる。

 義経、岡城入りの夢は消え失せ、悲愁のヒーローとして語り継がれている。

 されその後、一三三〇年頃、大友一族の有力武士団・志賀氏が大野郷志賀村からここ岡城に居城を移し、以降二六〇年間この地を治めた。

 ところで、志賀時代の城下は、現在の竹田のまちではなく、現岡城の北、挾田、十川辺りにあり、今に残る中川氏時代(江戸時代)の搦手である下原御門が大手門、今の大手門辺りが搦手門であったようである。したがって、今の竹田の街並みは、中川氏が入部以降つくられた町である。

 岡城は南北を流れる白滝川と稲葉川に挾まれた標高三二五メートルの山城で、四面絶壁の自然の要塞を持つ難攻不落の名城であった。

 天正十四年(一五八六)の豊薩戦争では、肥後口から侵入した島津義弘は十月、志賀親次を撃つべく浪野原へと向かった。岡城に拠る親次は兵を浪野十二口に派遣して迎え撃ち、互角に戦って島津軍を退ける。

 島津軍は次に、稲富新介を将とする五千余の兵が牛瀬原に陣を敷き、先鋒は岡城下滑瀬橋まで進撃した。これに対し志賀親次は、わずか一千足らずの軍勢でこの猛攻に耐え、要害の利と智力をもって見事に島津軍を退けたのであった。この岡城と志賀親次の名は、広く天下に轟かしたことであろう。

 大友宗麟の孫といわれる志賀親次は、洗礼名ドン・パウロを持つキリシタンであり、竹田地方でも盛んに布教が行われ、多くの民がキリシタンになったといわれている。のちに入部した岡藩主・中川秀成も、キリスト教に対し非常に寛大であったといわれる。

 先年、約十年振りに当会理事の平岩さんと志賀時代の城跡を訪ね歩いた。

 記憶が薄らいだ部分は、竹田市商工観光課参事の後藤篤美さんが同行していただいたので、大いに助かった。

 三人は先ず車で白滝川側から回って稲葉川方面に行き、その川沿いに車を駐車して歩く。この一帯が挾田、十川で志賀氏の時代の城下であった。

 歩き始めてすぐ左手に、志賀時代の石垣があった。六〜七〇〇年前の石が積まれていると思うと感激であった。ここを過ぎると林道は曲がりくねった坂道が続き、当日は寒かったのに汗が出るほどであった。やっと平坦な道になり、しっかりとした石垣が見え、岡城(左へ)、挾田(右へ)の道しるべもある。ここから上は普段の岡城めぐりを反対側から行くことになり、ここで志賀時代の石垣めぐりは終ることとした。

 この岡城跡は、いつ訪れても趣きがある。

 春らんまんの桜の時節、緑したたる夏、名月と紅葉の秋、雪が降る冬、これらとうまく調和する石垣。古城の雰囲気を醸し出す岡城跡は、これからも人々の心に何かを語ってくれるだろう。

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    岡城址    

    志賀親次の肖像画    

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    志賀時代の城下    

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    志賀時代の石垣と道    

がん患者さんへ

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らゆる病気を治す本当の力はこの自然治癒力です。

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       驚異のタヒポ茶      

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患者がタヒボ茶を服用して、社会復帰をはたしたという例がいくつも報告されています。しかも、タヒボはガン細胞だけを攻撃して、正常細胞には全く悪影響を及ぼさない という安全性も確認ています。

    「余命三ヶ月」脳腫瘍の青年に起こった奇跡    

 京都府立医科大学分子医科学教室の徳田春邦先生が、4期の脳腫瘍の青年がタヒボ茶の飲用で腫瘍が退縮した話を報告している。

 この青年は23歳の時に発症。右前頭葉深部に8㎝大の腫瘍が見つかり、手術不適応。一年生存率50%、10月時点で年内生存も難しいと言われた。

 ところが、お父さんが入手したタヒボ茶を11月末から飲用しはじめると、数日の内に白血球数が上昇、年明けには医師から 「土日は自宅に帰って結構です」と言われるほどに回復したという。

  病院の治療と併用する  

 タヒボは普通のお茶のように日常的に飲むものですが、現在病院で治療中の人が抗癌剤と併用して飲むとより効果的です。手術でガン細胞を取り除いても、患者さんは転移や再発を恐れています。こういう人にタヒボ茶は最適です。

 また、健康な人が予防のために飲むのと、ガン患者さんが術後の再発予防のために飲むのとでは服用量などに違いがあるので、専門家に相談しながら服用した方が良いでしょう。

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