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南大分マイタウン 本誌 第403号・令和元年10月1月

大友氏四〇〇年84 大友氏ゆかりの地を訪ねる18

NPO法人・大友氏顕彰会 理事長 牧 達夫

◯金剛宝戒寺 大分市上野丘

(1)縁起と大分の古代仏教文化

 清瀧山 金剛宝戒寺は七二七年(神亀四年)、国司の発願によって聖武天皇の勅許を得て、豊後国府近くの大分郡荏隈郷五丁津留(古国府〜羽屋)に創建されたといわれる由緒ある古刹である。

 開山は行基といわれ、寺域三万坪で、金堂、塔、講堂の大伽藍と六〇区の坊舎を有していたといわれる。

 上野・永興丘陵と荏隈平野(南大分)は古墳時代から奈良・平安期、鎌倉・室町期における大分の歴史舞台であった。金剛宝戒寺をはじめ、永興寺・清水寺・太平寺・岩屋寺などが建ち並び、豊後国分寺(賀来)とともに豊後の一大仏教圏を形成し、花開いた。

(2)金剛宝戒寺の移設・再建と大日如来坐像

 国司の保護もあって栄えた宝戒寺であったが、律令制の衰退、平安末期の政治混乱、度重なる大分川の氾濫などで荒廃の憂き目に遭った。

 鎌倉期の一三〇〇年前後、豊後の守護屋形である大友氏の館を上野に移したことを受け、一三〇七年、大友六代貞宗は荒廃していた金剛宝戒寺を、西大寺の僧幸尊を招聘して上野律院(現在地)に移し再建をはかった。

 この地が律院と呼ばれるのは、当時の宝戒寺が律宗であったことからのいわれであろうか。

 僧幸尊は歳月をかけて広大な寺域に八院を完成し、奈良興福寺の仏師康俊とその弟子を招き、大日如来坐像を一三一八年から永い歳月をかけて造らせ、金堂に納めた。大日如来坐像は、檜材寄木造、高さ三メートルの巨大な胎蔵界で、他に例がないという。

 ところで、この大日如来坐像は昭和の終りごろまで、作像者不詳、作像期は江戸時代初期ではないかとされていたが、その後宝戒寺を訪れた学者らの調査研究により前記のことが判明し、平成三年国指定の重要文化財となる。

 金堂の大日如来坐像を仰ぐとき、神秘的な幽玄の世界が漂う。

 ところで、この大日如来坐像が今日現存しているのは、極めて幸運といえるだろう。

 天正一四年(一五八六)の島津・大友合戦の兵火で上野・大友府内のまち(元町〜長浜)・南大分の神社、仏閣がことごとく焼失破壊されたが、宝戒寺の金堂は無残な姿ながらも辛うじて残り、大日如来坐像は難を逃れることができたのであった。江戸時代に入って元和年間(一六一五〜一六二三)、金堂を再建し、大日如来坐像を安座して幸尊、康俊の偉業を遵守してきたのだった。

 宝戒寺にはその他、鎌倉時代後期の作・木造釈迦如来立像、鎌倉期南北朝時代の作・木造聖徳太子立像、平安中期作・木造不動明王像などの文化財が本堂に安置されている。

 山門の前に「画聖雪舟天開図画樓隣跡」の記念碑が昭和二八年、有志の人々によって建てられた。一五世紀の中頃、画聖雪舟は、万寿寺住職・玄折を頼って府内を訪れ、上野丘陵に画樓を建て、山水画の創作に打ち込んだという。

 画楼の場所は、往時の宝戒寺の寺域である北側の壇ノ下ではないかといわれている。

 中世のロマン漂う金剛宝戒寺は、ゆっくり時間をかけて訪ねたい古刹である。

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 大分市老人クラブ大会開催

 第54回大分市老人クラブ大会が8月28日、ホルトホール大分大ホールで開催された。

 大分市老人クラブは現在47校区、306クラブ、1万5千人の会員を擁し、「健康、友愛、奉仕」をモットーに地域活動を行っている。

 当日は来賓、会員合わせて約1200人が出席、最初に牧達夫会長が挨拶「日本老年学的評価研究により、老人クラブ活動が健康にプラスであることが明らかになりました。これにより、老人クラブ加入のメリットとして、新しい仲間ができ、交流が楽しいことに加え、健康長寿の実現が夢でなくなりました」と述べた。長寿者など約300人の表彰があり、最後に原川次郎と挟間玉代の歌謡ショーがあった。

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