南大分マイタウン 本誌 第405号・令和元年12月1月

大友氏四〇〇年86 大友氏ゆかりの地を訪ねる20

NPO法人・大友氏顕彰会 理事長 牧 達夫

○大国社(印鑰社) 古国府下田中

 かつて「インニャクさま」と呼ばれていた印鑰の森は、豊府地区のどこからでも見渡せたが、今は林立するビル群に阻まれ、住宅地に囲まれて静かな時を刻んでいる。

 古国府を豊後国府の所在地だったと比定する一つの根拠は、国府庁の「印」と「鑰」を神とした印鑰社にある。律令制における「印」は国府庁の国司の公印のことであり、「鑰」は倉院の閂や枢を操作する器具を指していたようである。これらを儀式化して「印鑰神事」と呼ばれるようになったという。

 やがて「印鑰神」という神格が成立し、国府のシンボルとして祀る社殿を造営したことから、印鑰社、愛称として「インニャクさま」となった。もっとも、社殿が独立した神社として扱われるようになったのは鎌倉時代に入ってのことである。

 社伝では、建久年間(一一九〇~一一九八)、国府跡といわれる現在地に創建されたとされ、豊後守護職だった大友氏が関わったとされている。ところが、室町時代の享禄元年(一五二八)、火災で社殿が焼失し、印も鑰も融けてしまったという。

 江戸時代に入って再建するとき、府内祇園の神「素戔嗚尊」の子「大国主命」を祭神とし、神社の名称を「大国社」とした。

○大友孝親の墓 花園

 大国社の南、花園地区に字高近という地名があり、大友氏十一代・親著の長子孝親の墓が、鳥居さん宅の屋敷内に祀られている。

 大友時代、古国府花園に大友屋敷があったと伝えられており、字高近は大友孝親の屋敷があった処といわれている。

 応永三十二年(一四二五)、大友氏の家督争いが古国府三角畠(天まで上がれ古国府店付近)で起ったという。

 この乱は「三角畠の乱」と後世いわれており、大友氏十一代親著が自身の長子孝親に家督を継がせず、十代親世の子持直に継がせたことから、孝親が反乱を起こして自滅した事件であった。

 大友時代の中でも、この時分の大友家の家督は必ずしも長子が継いでいない時代であった。大友氏中興の祖といわれる十代親世は、十一代として兄氏継の長子親著を継承させた。これから、氏継、親世系が交互に家督を継ぐという両統交立がはじまり、十五代親繁まで続くことになる。

 無念の死を遂げた孝親の墓といわれる祠は、いま、鳥居さんによって大切に護られている。

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 大野川合戦まつり 大友氏顕彰会が初出演

 第15回大野川合戦まつりが11月9日(土)10日(日)大南大橋下の河川敷で大々的に開催されたが、9日大友氏顕彰会から9名が初出演した。9人は宗麟公時代の武将に扮してステージに上がり、吉岡妙林尼に扮した木下和子さんが各氏を紹介した。カッコ内は扮した武将の名。牧達夫(大友宗麟)利光征行(利光宗魚)平岩禎一郎(佐伯惟定)秋好正寿(志賀親次)釘宮裕司(吉弘統幸)若杉孝宏(田北統員)工藤大輝(戸次統常)タイトルは「島津軍と果敢に戦った大友武将たち」。最後に宗麟公役の牧氏が、島津・大友合戦の当時の思いを述べ、宗麟公まつりと提携できる部分があれば考えてみたいと述べた。

 また、9日は長宗我部元親の18代目の子孫になる維親(ゆきちか)氏も東京から駆けつけて挨拶した。

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 永興子供会が芋掘り

 永興子供会では11月9日、セルモ玉泉院前の永興花壇に植えたさつま芋を掘り出した。早田町内会長などが芋のつるを切り取って掘りやすくしていたので、子供たちはスコップで大きな芋を掘りだしていた。全員、ビニール袋いっぱいの芋をもらった。

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