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南大分マイタウン 本誌 第407号・令和2年2月1月

大友氏四〇〇年88 大友氏ゆかりの地を訪ねる22

NPO法人・大友氏顕彰会 理事長 牧 達夫

◯豊後(大分)と長崎の縁(その一)

〜豊後町・桑姫神社・長崎志賀家〜

 二〇一七年四月中旬、私は友人の坪根伸也大分市教育委員会政策監(当時・現教育部次長)と合澤就康当会理事の三人で、休日を利用して長崎へ日帰り取材した。目的は豊後大分と長崎のゆかりについて調査・取材するためであった。

 私は約四〇年前、長崎市の中心部で勤務(電電長崎)していたが、それらについてはかすかな記憶しかなく、今回確かめる必要があったのである。

一、長崎の豊後町

 一五九三年、豊後国主・大友義統が「朝鮮の役」での咎めにより改易となり、突然領地を没収された大友氏の家臣らは、各地を流転したり、帰農したりした。その中では、ゆかりのある柳河藩や熊本藩に仕えられた武士らは、恵まれていたといえる。

 当時キリシタンであった武士や住民らは、キリシタンの町長崎の地を目指したのではないだろうか。かつての領主大友宗麟の影響も受け、信仰に生きた人々である。

 現長崎市役所辺りに、豊後町があったということは知っていたのだが、具体的に詳しくは分からないので、まず近くの長崎文化博物館に寄って調べることにした。

 博物館には『長崎事典』なるものがあり、その「風俗文化編」に豊後町が載っていた。そこには島原城主・松倉豊後守が開いた町であるとされており、その時期は元和元年(一六一五)である。

 しかし、それ以前の慶長十年(一六〇五)ごろには、豊後町という町名があったという。その由来は「豊後出身のキリシタン関係者がつくった町ではないかと思われる」とある。

 また、昭和三八年(一九六三)の町名変更で、「豊後町は現在の桜町、金屋町、興善町に分割された」と記されている。私としては、この歴史的地名である豊後町は残して欲しかったと思う。

 いずれにしても、かつての豊後町は長崎市の中心地にあったのである。

◯豊後町の「安豊稲荷大明神」

 我々三人は豊後町が長崎市役所周辺にあったことを確認し、博物館からいただいた周辺地図を頼りに、以前竹田市役所商工観光課参事の後藤篤美さんから聞いていた「安豊稲荷大明神」を探し歩いた。

 ようやく、長崎商工会館の脇(現在は興善町三丁目)に小ぶりの稲荷社を見つけることができ、三人はホッとして口元がほころぶ。さっそく参拝して辺りを見る。

 稲荷社の石灯籠や玉垣に、「豊後町」の字が刻まれていた。また上方を眺めると、屋根のひさしに「大友家の家紋」があった。

 稲荷社を創建した時期は、今回は分からなかったが、豊後から避難移住した大友氏ゆかりの人々の末裔が建てたにちがいない。

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南大分歩こう会 賀来神社へ初詣で

 南大分歩こう会(甲斐睦江会長)が、今年も新春歩こう会で賀来神社へ初詣でを行なった。

 1月7日午前9時に明磧橋の袂を出発、27名が参加して、賀来神社でお祓いを受けてからお神酒をいただいた。

 なお、2月26日には四浦半島の河津桜観賞とフンドーキン醤油工場見学、臼杵二王座散策をする予定です。旅行代金6000円、2月10日までに甲斐会長(090–3190–7721)までお申し込み下さい。南大分歩こう会への加入もお願いします。

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古国府老壮クラブが新年会

 1月13日古国府老壮クラブ(牧達夫会長)の新年会が同町公民館で行われた。保田町内会長も出席して、午前中はスカットボールに挑戦した。ほとんどの人が初めてだったが、簡単なルールなのですぐに覚えて楽しんでいた。昼食時にはお酒も入って、カラオケが次々と歌われ、2時過ぎまでにぎわっていた。

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庄の原サロンが忘年会

 庄の原サロン(神志那昌男代表)では、12月22日同町公民館でお楽しみ忘年会を実施した。約30名が参加して、健康体操や寸劇などを楽しんだ。最後は昼食を食べてお開きになったが、デザートがたくさん出ていた。

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