南大分マイタウン 本誌 第409号・令和2年4月1月

大友氏四〇〇年90 大友氏ゆかりの地を訪ねる24

NPO法人・大友氏顕彰会 理事長 牧 達夫

豊後(大分)と長崎の縁(その三)

○天女廟碑の碑文の謎・疑問点

 天女廟碑によれば、桑姫を大友義統の二女としているが、最初これが全く訳がわからなかった。明治・昭和初期いや、最近までは桑姫はマセンシア(久我三休と宗麟の二女テクロとの娘)説が有力であった。つまり義統の娘にキリスト教と深く関わった人はいないので、宗麟の孫であるマセンシアはキリシタン信仰において称賛すべき人物であるとしている。

 彼女は祖母ジュリア(大友宗麟の後室)とともに長崎に逃れてきて、日々献身と修行の日々を送っていたが、肉体が衰弱してしまい、ついに慶長十年(一六〇五)、八十日間の病床にあった末十八歳の若さで亡くなった。

 先ほども書いたが、桑姫はこのマセンシア説が最近まで定着していたが、六〜七年前、『キリシタン志賀一族と桑姫御前』を著わした宮本次人氏によって、マセンシア説を否定され、マダレイナ清田説を唱えている。

 実は故福川一徳氏も数年前、桑姫が寛永四年(一六二七)に亡くなったのが事実であるとすれば、マセンシア説はなくなり、マダレイナ・キオタが桑姫かもしれないと書かれている。

 浅学の私としては、頭の中のモヤモヤが晴れてきた。マダレイナ清田とはどのような人物であるのか。マダレイナとは豊後判田郷清田城主・清田鎮忠の後室(大友宗麟の長女ジュスタで、元一条兼定室のち清田鎮忠と再婚)の連れ子で、十歳で受洗し、その後嫁いだものの三〇歳のころ寡婦となり、一六〇〇年前後、実母ジュスタを頼って長崎に移住したと思われる。

 マダレイナはその後、聖ドミニコ会に入り、度重なる迫害のためにトルレス神父も彼女の自宅でミサを行ったという。しかしその後、彼女は一六二二年から四年間、自宅に監禁されたままだったという。

 そしてマダレイナは、寛永四年(一六二七)八月十四日、自宅に祈祷所を持ち、祭祀用の品々(用具)も隠匿していた罪で火刑に処せられた。五八歳であった。

 宗麟の血を引く一族には、多くのキリシタンがいるが、殉教に輝いたのはマダレイナ清田だけではなかろうか。マダレイナは宗麟直系の孫娘であり、この殉教が強烈な印象となって長崎の住民の間に語り伝えられたので、大友一族にとっては「姫」であり、「天女」であり、時を経る中で桑姫の事蹟に重ね合わされていったものであろうか。

 「宗麟の孫娘」であるマダレイナ清田を「義統の二女」としたことについて、宮本次人氏は次のように語っている。

 「母ジュスタが当時、大友義統の支配下にあった清田家に嫁いでいるので、清田家の主君であった宗麟を継いだ義統の方を系譜として採ったのは誤差の範囲とみたい。また、キリシタン色を払拭しなければならなかった徳川時代、キリシタン大名としてその名が知られた宗麟よりも、義統の娘とする方が都合がよい、とする心理も働いたものと思われる」

 ところで清田鎮忠はドン・ベドロ鎮乗(ドン・パウロー志賀親次の兄弟)を養子にもらい、その鎮乗の一族はのちに肥後細川藩に仕えた。

 我々は天女廟碑、淵神社本殿、そしてその左手にある桑姫神社に参拝し、大友一族と長崎のゆかりに歴史の深さを感じたのであった。

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大友氏顕彰会の新年会

 大友氏顕彰会(牧達夫理事長)の新年の集いが、2月20日都町のアートホテル大分で開催された。これは大友宗麟をNHK大河ドラマに取り上げてもらおうという運動の一環でもあり、約40名が参集して気勢を上げた。佐藤市長、麻生県議会議長も出席して挨拶、木下和子大友歴史保存会代表の司会、若杉孝宏大友顕彰会副理事長の乾杯の音頭で会が進行。出席者全員が一言ずつ新年の抱負を述べて会は盛り上った。

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