南大分マイタウン 本誌 第410号・令和2年5月1月

大友氏四〇〇年91 大友氏ゆかりの地を訪ねる25

NPO法人・大友氏顕彰会 理事長 牧 達夫

豊後(大分)と長崎の縁(その四)

○浦上村淵庄屋志賀家墓地 長崎市曙町悟真寺

 長崎市悟真寺にある長崎志賀家の墓地は、国際墓地内の高台にあり、ロシア墓地のチャベル面が背後に見える位置にある。案内板には次のことが記されている。

 志賀家は、江戸時代初期から天領長崎三ヶ村の一つである浦上村淵庄屋を勤めた家柄で、始祖親成、初代庄屋親勝以降代々の墓碑がある。

 志賀氏は豊後大友氏の庶流で大友氏除封後、志賀親成・親勝らが宗麟関係者や旧大友家臣ら流寓。当時、長崎奉行で府内藩主の竹中忠義によって浦上淵の庄屋に任命されたといわれている。

 十一世親憲は安政五年(一八五八)、稲佐ロシア人休息地開設に関与し、その長男の親朋(一八四二〜一九一六)はその環境からロシア語通訳となり、幕末にはロシアに留学、明治維新前後には対ロシア外交交渉に通訳として関与した。

 志賀家墓地は、昭和五二年三月二五日、長崎市指定史跡に認定されている。突き当りに始祖親成(宗頓)や淵村庄屋初代親勝などの墓がある。

 親成(宗頓)の墓石の正面は「自徳院殿楽誉親成宗頓居士」。左側面は「元和八年五月七日卒 始祖志賀親成」とある。

 親成の右側が親勝の墓で正面に「正運院殿徳誉親勝宗邑居士」左側面に「寛永十七年庚辰六月十三日卒 第一世志賀内蔵之丞親勝」とある。

 親成の実子は肥後細川藩に取り立てられ、長崎で跡取りがいなかったので、弟の親次の子・親勝を養子に迎え、淵村初代庄屋としたのである。

 志賀家の家系は家系図によってかなり異なることが多く、戸惑うことがあるが、ここでは志賀親守の子は長男が親孝、二男が浄閑、三男が親成、四男が親次との説を記しておこう。親次は長兄・親孝の養子となり、本家を継いだという。

 ところで、義統改易時の志賀氏当主は親次だが、その後の消息はあまり知られていない。まず岡城での島津征討(一五八六年)の功績等に一五九六年、秀吉から「日田郡大井庄内」に千石を与えられる。

 一六〇〇年の関ヶ原合戦により徳川家康の天下となるが、安芸・備後の国主福島正則から親次は千石余で迎えられる。しかし、ここは一年余り。一六〇九年には小早川秀秋に同じ千石で迎えられた。その後、再度福島正則の所に行き、最後は毛利輝元の所に預けられ、終焉の地は現在の山口県宇部市太田代に住み一六六〇年、九三歳という長寿で波乱の人生を終えたという。

 長崎日帰りの旅は、志賀氏をはじめ豊後の人たちの命脈を確認できた旅であった。

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ドーン!!わっ事故だ!

 

1.事故だ!左の車が横転

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2.横転した車からおばちゃんが出てくる

 

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3.近所の人が出てきて車を起こす

 

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4.よいしょ!起きたか!ケガ人はいないな

 

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