南大分マイタウン 本誌 第411号・令和2年6月1月

大友氏四〇〇年92 大友氏ゆかりの地を訪ねる26

NPO法人・大友氏顕彰会 理事長 牧 達夫

○津久見の大友宗麟の墓地(宗麟公園)

 宗麟公の墓地にはじめてお参りしたのは、今から二〇年前の古国府歴史研究会のメンバーと津久見・臼杵研修旅行のときである。

 それから平成二三年大友氏顕彰会を発足させて以来今日まで、毎年宗麟公の命日五月二三日に会員等と墓前祭を実施している。今年は新型コロナウイルス感染防止のため、参加者を限定して実施した。

 三〇年連れ添って別れた宗麟の前正室、奈多夫人(疫病死)の後を追うように、同じ得体の知れない疫病によって世を去った宗麟公の墓前に手を合わせながら、今日蔓延している新型コロナのことを思う時、大昔から人と疫病やウイルス感染病との闘いを実感したのであった。

 津久見市にある宗麟墓地は、津久見高校裏手の宗麟公園と名付けられた小高い丘にある。

 宗麟公の墓は現在仏式の墓とキリスト教の墓と2つある。ここで宗麟の墓が何故津久見にあるのかについて、少々長くなるが順を追って記述していこう。

宗麟の墓が何故津久見にあるのか?

 宗麟は一五五一年、山口より府内に来たフランシスコ・ザビエルに会い、キリスト教布教を許し、自分自身も次第にキリスト教へ傾倒していくこととなる。ザビエルとの邂逅はまさに運命的な出会いとなった。

 しかし、豊後国は他国と同じように神仏を信仰するのが当たり前であり、キリスト教の布教を許可し、南蛮貿易を盛んにしその利を得たとしても自分がキリシタンになるわけにはいかなかった。一五五九年には宗麟は六か国の大守となる。

 だが、一五七八年春、宗麟と親交のある伊東氏が前年島津氏に追われたことから、義統を大将として北日向(延岡とその周辺)に侵攻、総勢三万の大軍で次々と撃破し、北日向を平定する。この大勝利に高揚した宗麟は北日向にキリスト教平和国家を建設する夢を実現するため、長年連れ添った奈多夫人と離婚し、こともあろうに奈多夫人の姉(侍女頭)と再婚する。

 宗麟は一大決心してザビエルにあって二十七年目に新夫人と共に洗礼を受け、宗麟はドン・フランシスコ、新夫人はジュリアと命名される。

 宗麟は天正六年(一五七八)九月、同年春に北日向を制圧した勢いに乗じて強敵島津軍と戦うため、妻ジュリアや宣教師、生涯の友人アルメイダらと臼杵を出発して務志賀(延岡市)に本営を構えた。

 十月下旬、三万余の大友軍は務志賀の本営を立って南下、島津軍の要衝高城へと侵攻する。だが、総大将田原紹忍のリーダーとしての能力が発揮できず、もともと島津軍との戦いに反対していたそうそうたる顔ぶれの武将らに一体感はなかった。

 一方宗麟は務志賀にとどまって、キリシタン王国を夢みて神父らと祈祷にふけっていたという。宗麟にしてみれば、春の日向一次遠征に楽勝しており、今回の二次遠征にも島津軍に負けるはずがないと思っていた感があったのであろう。

 現実の戦況は小丸川を挟んで両軍壮絶な戦いとなったが、渡河する大友軍に対岸の島津軍が銃弾をあびせ、大友勢は総崩れとなり、多くの名だたる武将も討死してしまう。十一月十二日未明の刻であった。

 報せを受けた宗麟は、命からがら逃げ帰った。この日向での大敗北によって、大友氏は急激に衰退の一途を辿ることとなる。その後各地で大友氏に反乱する武将が出るが、宗麟は家臣から現役復帰を要望され、総指揮を取ってなんとかこれを治めることができる。

 その後、宗麟はキリスト教の布教で由布院・玖珠あたりに出掛けたり、バリニアーノに会って信長への親書を持たせたり、臼杵にノビシャドを設立するなどキリスト教への支援活動は島津軍に敗北後さらに拡大するようになった。

 天正十年(一五八二)一月、伊東マンショら少年遣欧使節団が長崎を出港する。六月、親交のあった織田信長が本能寺で明智光秀に討たれる。

 この年、宗麟は津久見に居を移した。そして会堂「天徳寺」を建て、なかば強制的に住民をキリスト教に入信させる。宗麟は津久見の山々に狩りでなじみもあり、津久見の海も好きだったにちがいない。北日向につくろうとしたキリストの理想の国は挫折したが、この津久見を理想の国として取り組んだのであろうか。

宗麟「国崩し」で島津軍を圧倒―丹生島城を守る

 一五八六年、九州制覇を目指す島津氏は、豊臣秀吉からの停戦命令をはねつけ、九州一円を席捲

すべく、大友領国の筑前、豊後に侵攻してくる。

 この状況をみて宗麟は老軀を押して上坂し、大坂城の秀吉に謁見して救援を嘆願する。鎌倉期以来からの名門の落日を背に負った宗麟と、貧農の出から今や太閤として日の出の勢いの秀吉、戦国ならではの光景であろうか。この時、宗麟五十七歳、秀吉五〇歳、宗麟の胸に去来したものは何であっただろうか。

 筑前では岩屋城を死守していた勇将高橋紹運が、島津の大軍と死闘の末、壮絶な最期を遂げるが、紹運の実子立花宗茂は父紹運の長い死闘のお陰で立花城を守り抜く。さらに宗茂は秀吉軍の先発隊と共に島津軍を追払う戦いで、先頭を切って戦果を挙げる。

 一方、豊後では戸次河原の合戦は、巧みな島津軍の戦術にはまり、大友・四国連合軍は大敗北を喫する。

 だが、豊後での戦いが全て島津軍に蹂躙されてはいない。岡城主志賀親次、栂牟礼城主佐伯惟定、角牟礼城の玖珠衆、そして鶴崎城代吉岡妙林尼らは、決死の覚悟で島津軍と戦って落城を免れ撃退している。

 臼杵丹生島城も島津軍が攻めてくるとの情報が入り、宗麟は津久見から丹生島城に入り住民を皆城に入れるよう指示、前正室奈多夫人も住民の世話をしたといわれている。

 丹生島城には少数の家臣しかいなかったが、宗麟は国崩し(大砲)で応戦し、島津軍の侵入を阻んで落城を免れ、面目を保ったのである。

 こののち、秀吉は九州平定を進める中、島津氏は降伏する。

宗麟の死と信仰の火

 天正十五年(一五八七)五月二十三日、宗麟は義統の豊後国拝領を知る中で、静かに五十八歳の生涯を閉じる。宗麟が没して一ヵ月後、秀吉はバテレン追放令を発した。

 六年後、大友家は義統の朝鮮の役における敵前逃亡という咎で豊後国を没収され、ここに豊後大友氏四〇〇年の幕は閉じる。

 宗麟の心に灯をともさせた信仰の火は、豊後において多くの殉教者を出したが、その火は消えることはなかった。

津久見宗麟公園にある宗麟公の墓

 宗麟公が亡くなった時の墓は、当然キリシタンであったことからキリスト教式の墓であった。ところが、大友二十二代義統は、秀吉のバテレン追放令が出されたことから、いったんキリシタンになっていた自分自身を仏教に改宗し、宗麟のキリスト教式墓を取り壊して、仏式の墓に造り替えたという。

 この宗麟の墓には次の話がある。実は江戸時代、義統が建てた宗麟の墓の所在がわからなくなった、あるいは墓が何者かに荒らされて墓がなくなった。このいずれかは事実はわからないが、かつて家臣の子孫が改めて和式の墓を建てたのは事実であり、それが今宗麟公園にある和式の墓という。

 現在和式と並んであるキリスト教式の墓は、昭和五十二年(一九七七)、クリスチャンの上田保元大分市長が発起人となり、「大友宗麟公顕彰会」を結成して造ったという。

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