南大分マイタウン 本誌 第411号・令和2年6月1月

団塊世代1期生の思い出②

大友氏顕彰会副理事長 若杉 孝宏(ふじが丘在住)

 自叙伝などで「最初の記憶は何々である」とよく見るが、自分の事では3、4歳の頃の2、3ある思い出のどれが最初だとは確信がない。なかには夢か現実か分からないが、親や姉兄たちに聞いて本当だったとか、また親姉兄の話を自分も経験したような錯覚などもあり、幼い頃の思い出はかなりいい加減なこともあるようだ。そんなことを自覚しながら記憶をたどり、記述していこうと思う。 

 

三つ子の魂幾つまで?

 僕は昭和21年11月24日、父・若杉英敏、母・万寿子の第6子次男として、大分市三ヶ田町8組(本籍は大分市大字永興201番地)で生まれる。終戦1年3カ月後の事で、アメリカ進駐軍GHQの指導の下、日本政府は民主化を基本にさまざまな法案を提出、新体制の構築に向け必死であった。そして国民もまた混乱の中、その日の糧を得るのに必死であった。   当時、我が家は青表問屋を営んでおり、農地も3町歩ほど所有していた関係で経済的には恵まれていた。しかし、同年2回にわたる農地改革(全面的に小作に依存していた大地主は、自分の土地として1/10が残された。我が家の場合1000坪、約3反残される)により、翌年から大変なことになるのである。そのときの危機意識はどれほどあったのであろうか。 

 後年母に聞くところでは、3反あればとりあえず家族が食べるだけの米は確保できるということで、自分で百姓をしたいとおコクばあさんに申し出たそうである。ところが 「万寿子に百姓なんか出来んのかな!若杉の嫁に百姓などさすんわけにゃいかん」

 と猛反対をされた。その理由は母をいたわってのことではなく、世間体をおもんばかってのことらしい。母はそのときの祖母に逆らえない父の態度に失望し、よっぽど腹立たしかったのだろう、後年ことある事にそのことを口にした。 

 

乳兄妹

 僕が赤ん坊のとき死に損ないだったというのは良く聞かされた話だが、生後3カ月の写真には普通の赤ん坊と変わらぬ表情で写っているので、生きるか死ぬかの重病に陥ったのはそれ以降だろうと思う。古国府にある医者(利根医院?)から見放されていたらしく、骨と皮だけにやせほそり、皮をつまんで注射するほどだったらしい。長女久子がよく僕をおんぶして通院したという。そんな状態だから自力で乳を飲むことが出来ず、そのうち母の母乳が出なくなった。たぶん6カ月過ぎくらいだろう、自力で吸飲出来るようになっても母乳が出ない。そんな時もらい乳をするのが普通だった。

 そこで我が家とは250mくらい離れている永興の加茂に住んでいた岩田の久枝おばさんからもらい乳をすることになったのである。ちょうど3月?に弘子という女の子が産まれていたのだ。僕と同学年になる彼女は色白でとても可愛く頭も良く、小・中学校時代は男の子のファンが結構いたようだが、おとなしすぎたのであまり目立たなかった。姉たちが彼女を気に入っており、「弘子ちゃんと孝ちゃんは乳兄妹なんやけんな」と僕をそそのかすような言動があった。 

 

菊兄さんの事

 小学低学年のころ、よく家族の話題に上っていた。自分は会った記憶があるような無いような人である。政喜の姉の子で、高崎の惟福寺の息子だ。非常に出来がよく一時期我が家に住んでいて、祖父が大学まで出してやった。そしてあの伊藤忠に就職したのだ。姉たちも楽しい思い出が多かったのだろう、特に長女久子は思い出深い人のようだった。というのも、祖母が夫・政喜甥の菊翁と将来結婚させる意思があった、と知らされていたらしいのだ。久子より7、8歳上ではなかったろうか。

 ここで菊兄さんを取り上げたのは本人のことではなく、実家の惟福寺のことである。たぶん昭和28年、政喜の法事の時だったと思う。親戚一同が集まって直会の後の雑談でおコクばあちゃんが

「孝宏を高崎のお寺の小坊主に出そうと思うちょんのやけどな」

 と言うや否やワーンと泣き出してしまった。子ども心に坊さんが嫌だったのだろう。そして高崎のお寺とは、万寿寺の別院・高崎山のサル寄せ場にあったお寺だとばかり思っていたからだ。あんな遠くに行きたくなかったのだ。

 大人になって高崎のお寺と言うのは、宮苑に接した高崎地区の惟福寺のことだったと知った。一昨年、ウオーキングコースの途中のトイレを借りることになり訪ねた。90歳を超えたおばあちゃんが出て昔のことを話した。よく覚えていて

「昔はお宅にはお世話になったなあ、菊翁は自分の兄(弟?)」だと言った。

 現在の住職はその息子さんで60歳前ぐらいだった。西山さんという。

 それから1年以上、まだご健在だろうか。

 

三ヶ田町商店街はデパートメント

 北から佐藤酒店、武藤医院、橋本?精米所、足立ブリキ店、後藤油屋、山崎写真館〈後年8組に移転〉、井下燃料店、松井農機具店、後藤床屋、和田谷帽子屋、有田布団店、古沢歯科医院、 森七商店(酒屋)、大徳物産、佐藤畳屋、徳丸鍛冶屋、脇石油店、三浦歯科医院、佐藤自転車屋、那須自転車店、三股細工店、生野板金、麻生金物、美濃味噌醤油、若杉製材所、小米良米穀店、小米良精米所、日の丸衣料品店、平岡本屋、立川瓦店、早川燃料店、?桶屋、マツヤ商店(三浦食料店)、大分銀行南大分支店、至誠堂時計店、若杉商店(青表)、茶屋呉服店、カマヤ(四童子金物店)、首藤乾物屋、姫野鍛冶屋、工藤薬局、日向屋(荒物屋・後パチンコ店〈葛城〉)、大分信用金庫、岩田薬局、パーマ屋、九配、佐藤傘屋、若林菓子店、緒方自転車店、玉ノ井米(粉)屋、谷川雑貨店、原産婦人科、織部医院、ポンプ小屋、鯉飼場(大分県水産試験場)、南部館、角商店(ゴザ・畳)、フジブン(首藤文具店)、幸重金物店、山崎商店、南大分簡易郵便局、植木商店、堤商店(青表)、オバシヤ(寺司呉服)、阿部医院、モリタカ商店(酒・食料)、首藤タンス屋、首藤鍛冶屋、寺司陶器店、大久保石材店、大久保床屋、田崎雑貨店、二又には幼稚園、南大分小学校と中学校があり、そのまわりに二十軒前後あって、店は桑島文具店(後永興に移転)があったそうだ。

 こうして列記してみると、実に多種多彩な業種と70軒を超える店があったのに驚かされる。特に金物屋、板金屋、鍛冶屋、青表が多い。これはとりもなおさず、当時の南大分の産業構造を示しており、旭町、三ヶ田町以外はほとんどが農家で米・麦用の農機具と七島イ生産を主としていたことの表れである。 

 また、南部館は南大分唯一の娯楽の殿堂で、田舎芝居や映画をかけていた(詳細は後述)。もうひとつ、パチンコ屋があったが、これは葛城の彰(政喜の弟の子で英敏の妹惇子の夫)おいさんが始めたということだ。昭和27年、全国的なパチンコブームだったらしい。

 使われなくなったパチンコ台が坪の端に置かれていてそれで遊んだ記憶がある。店内はパチンコ屋独特の賑々しく大人のにおいといおうか、異次元世界を夢うつつに思い出す。兄によると日向屋の倉庫を改造して30〜40台設置していたそうである。

 そのパチンコ店経営は長く続かなかった。

記事の訂正

 先月号表紙の自治委員名簿で、城南東町の自治委員を片岡和人氏としたのは誤りでした。片岡氏は前自治委員で、城南東町には現在自治委員が不在となります。

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