南大分マイタウン 本誌 第412号・令和2年7月1月

大友氏四〇〇年93 大友氏ゆかりの地を訪ねる27

NPO法人・大友氏顕彰会 理事長 牧 達夫

○大友氏府内のまち(その一)

 大友府内の町は、大分川左岸の沖積地に大友氏5代・貞親が一三〇六年、蒋山万寿寺を建立して門前市をつくったことに始まり、10代親世が万寿寺から北を開発して町割りの基礎をつくり、大友館もこの頃つくられたといわれている。

 12代持直が海外貿易を始め、15代親繁、16代政親も海外貿易を引継ぎ、18代親治の時代大友府内の町の原形がほぼ完成したといわれている。

 20代義鑑、21代義鎮(宗麟)、22代義統の時代が大友府内の町の最盛期で、現在の元町辺りから六坊町、顕徳町、金池町、錦町、長浜辺りまで、当時の町名でいえば千手堂・小物座・後小路・鋸・柳・御内・御北・西小路・上市・下市・桜・唐人・古川・長池等々府内の大友館を中心に40余りの町並みと多くの寺院で形成されていた。

 府内の町の道路は南北に約2キロの町並みに四つの道が走り、東西約0・7キロの町幅にいくつかの道があったという。

 大分川の分流が長浜あたりから左側に走り、いまの県庁、市役所辺りを通り、住吉川と合流して海に流れ込んでいたようである。現在の塩九升商店街通り周辺に舟入場があり、例のザビエル一行が沖ノ浜からこの船入場に着き、大友宗麟がいる大友館まで行列をつくって歩行したといわれている。

 先述したように大友府内の町は大友館を中心として、万寿寺をはじめ多くの寺院が建てられ、40余りの町に5千軒の町屋が建ち並び、ポルトガル人や中国人、東南アジアの人々も行き交い、武家屋敷と商家が混在する国際色豊かな貿易都市として栄えた。

 この大友府内の町の発掘作業は20年間に及ぶが、大友館跡のメダイや京文化の茶道具をはじめ中国、タイ、朝鮮、ベトナムなどの陶磁器、宋銭、明銭などの中国銭、分銅、地蔵菩薩、懸仏、和鏡、井戸や万寿寺の鬼瓦、こね鉢、青磁皿、土師器、漆器椀等々多くの品が出土しており、当時の大友氏や寺院、町屋の様子が垣間見える。

 また、大友館の西方一帯には、教会や育児院、日本初の西洋病院、コレジオ(高等神学校)等があった処といわれており、府内の町は南蛮文化の薫り高い貿易都市として発展したのである。

一、大友氏館跡 大分市顕徳町三丁目

 大友氏館は、平成十年(一九九八)に大規模な庭園遺構が発見され、このことがきっかけとなり、平成十三年(二〇〇一)に国史跡に設定された。

 近年の発掘調査によると、ここ府内の大友氏館の始まりは南北朝時代(大友氏十代親世のころ)にさかのぼるとされ、大友宗麟が長子の義統に家督を継がせた大友氏の最盛期に、再整備した大友氏館があったことがわかった。

 最盛期の大友氏館は一辺200メートル四方の規模に及び、外周は塀で囲まれ、館の建物は東西15メートル以上、南北約30メートルの大きさを持つ中心建物跡や東西約67メートル、南北30メートルの我が国最大級の規模といわれる庭園跡も発見されている。

 

二、大友氏館の庭園の復元 令和二年六月五日初開園

 庭園は大友氏館全体の約七分の一の敷地面積があり、戦国時代で日本最大級の池を持つ庭園である。

 この庭園は宗麟の祖父19代当主・義長から20代・義鑑の頃に造られ、宗麟の時代に大きく改修され、22代・義統の代にさらに大規模な改修が行われ、最大規模になったといわれる。

 先の六月五日、数年前から行われていた庭園の復元作業が完成して一般公開されたので私も大友館へと足を運んだ。

 この庭園の池は、東半分と西半分で異なった表情をしており、池の東側は巨石をダイナミックに組み合わせた躍動感のある風景をつくり、西側は石をあまり使わず、水面を広く見せる穏やかな表情を醸し出している。

 庭園は植栽も重要なポイントになるが、今回の植栽は当時の庭園から発見された種子や花粉をもとに植えたといわれる。ゴヨウマツ、モミジ、ヤマザクラ、ヤマツツジ、ムクノキ、クスノキ、サザンカ等々30数種類の植栽が四季折々の表情で楽しませてくれそうで、観光の一つになればと思っている。(続く)

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清田種嗣さん黄綬褒章受章

 旭町5組の清田種嗣さんが春の褒章で黄綬褒章を受章した。

 清田さんは明治5年に創業した清田産業の6代目社長として活躍、現在は後任に仕事を譲って第一線を退いている。84才。今も元気に買物などを楽しんでいる。

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