南大分マイタウン 本誌 第412号・令和2年7月1月

団塊世代1期生の思い出③

大友氏顕彰会副理事長 若杉 孝宏(ふじが丘在住

家庭教師は長女・久子

 小学校の入学は、昭和28年4月(6歳5カ月)である。入学前の支度にはお金がかかり、母は工面するのに頭が痛かっただろう。当時は、小学生になると2本の白線が入った学童帽と、詰め襟ではない黒の低学年用の学童服を着せるのが普通だった。※小学生は児童なので学生服ではなく、学童服、学童帽と表現すべきだと思っている。 

 入学を前に真新しいランドセルを買ってもらった。それは焦げ茶色のバックに野球少年のイラストが浮き彫り風に作られていて、全体がエナメルでぴかぴかに光っていた(今思えば馬糞紙に布をまき印刷した紙をその上に貼り付けるという粗悪品で、3年生までしかもたなかった)。以後は彰おいさんが使っていた古カバンを使用した。

 新品の教科書は全教科揃っていなかった。すぐ上の姉容子のお下がりでいいはずだと母は決めていて、古い教科書も持たされた。それでも胸が躍ったような記憶があるが、入学後の授業の時、教科書の内容が若干違っていた記憶もある。その他でいやな思い出はないから人並みなことはしてくれたのだろう。 そしてズックの靴にランドセルといった出で立ちで通学するのである。

  入学式の翌日がクラス分けで新しい友達ができる。南校舎の1階で東から2番目の教室だったと思う、1年3組だ。担任は衛藤忠義先生、南太平寺の人である。メガネをかけ背の高い、30代半ばではなかったかと思う。歌手の岡本敦郎に似たやさしい先生だった。

 その年に中学校と隔てていた道路沿いに新しい校舎が出来た。新校舎は兄昌宏たち6年生の教室に割り当てられた。

 何が最初の思い出かは、はっきりしたものはないが、強いて言えば国語の最初のページ「犬のポチ?とシロ」の詩と唱歌「春の小川」である。これを聴くと春の陽光が教室に差し込んでいる光景や、家から少し離れた線路から南の、小さい水路がある豊饒・畑中方面の菜の花畑やレンゲ畑の田園風景がよみがえる。 

 その他、これはたぶん幼稚園の3学期辺りくらいからだろうと思うが、小学校に上がる前までに自分の名前や住所や数字を書けなければならないということから家で特訓が始まる。 先生役は父の記憶もあるにはあるが主に長女「久子ねえちゃん」である。2階の北の12畳間と10畳間の堺の12畳間の隅に久子の机があり、そこに腰掛けさせられて鉛筆の持ち方から文字の書き順などを教わった。同じことは何回かがまんして教えているのだが、自分(久子)の限界を超えて覚えきらないと 「何回言えばわかるんかえ!ちゃんと聞きんさい!」

 とカミナリが落ちるのだ。当時久子は上野丘高校生であったが僕にとっては全くの大人であった。次女宮子とは3つ違いだが宮子も久子から教えてもらっていたというから、妹弟全員の家庭教師だったわけだ。実際高校生までの成績はだれも久子を超えていない。いまだに長女の威厳を保っていると思うのは、ほかの妹弟の子ども時代のトラウマがあるのかも…。  昨年(平成19年春)先祖の書き物で校正をしてもらったが的確な指摘ばかりでさすがにと思ったものである。が、気性も50数年前と少しも変わっていない。老いていなくて結構なことである。   ついでに久子に関連する思い出を。 

 この年(次の年?)に上野丘高校の運動会に家族総出で見物に行った。貧しい日々ではあったがお昼のお弁当はふつうに作っており、非常に楽しかった思い出がある。プログラムなど覚えていないが、仮装行列に人気があった。久子の好きな田中昇先生が鞍馬天狗に扮していて、家族と一緒に写真に撮ったような覚えがあるが記憶違いか?場所はグラウンドに面している松坂神社の境内だった。

 先日、上野丘高校創立60周記念の仕事(大分合同新聞社の企画)で取材に行った。おそらく五十数年ぶりに当時を思い出しながら撮影してきた。神社の佇まいや境内の風景は記憶と大差なかった。

他人の子も躾るばあちゃん

 1年生のクラスメートは誰と遊んでいたのだろうかと記憶をたどると、宮部和良と宮本信彦の名が浮かんできた。のぶひこちゃん(当時の呼び名)は家に遊びに行った記憶があり、十数年前偶然彼と会った時それを話すと、僕のことは覚えていたが遊んだ記憶はないと言う、そんなものだろう。宮部とは一時期よく一緒に遊んでいた。でも少し苦い強烈な思い出がある。 

 ある日宮部が遊ぼうと家に来た。そのとき手に1個のリンゴを握っており、まだかじっていなかった。お縁からそれを見たばあちゃんが 「二人で遊ぶときはな、自分のもんでも”とぎ“にも分けてやらんといけんので。ちょっとそのリンゴをワシに貸しんさい」

 と言って取り上げ、台所にいって二つに切って持ってきたのだ。宮部は別に不満そうでもなく普通の表情だったと思うが、自分としてはそんな祖母の行動がめんどうしゅう(恥ずかしく)で、宮部に対して申し訳なかった。でも、祖母に反論できるはずもなく、宮部に謝るでもなく、その半分のリンゴは仕方なく食べたのだが、全然おいしいとは思わなかった。   今、客観的にみると祖母の行動は正しかったのではないか。 他人の子もちゃんと教育したのだ。偶然そのうちの一人が孫に過ぎなかっただけである。今自分ににそれができるかと問われれば、やっぱり出来ないと思う。子ども二人が他人であればできるが。

  現在、宮部はわが社クォークの会社の近くにいて、彼とは10年ほど前の現役時代、森七商店の森かったん(一友)と都町でかったんの弟(一太)が経営する店で1回飲んだことがあり、また信用金庫を退職した5年ほど前にもこの辺りで数回偶然会い、挨拶程度はするのだが昔話にはならずじまいである。彼は覚えているだろうか?因みに森七も兄弟姉妹が多く、我が兄弟姉妹と同級が多い。

(次は令和元年8月末日記述)

 ところで森七商店の先祖は玖珠の「森氏」ではないだろうか。このように思うのは、平成28年の「大友氏顕彰フォーラム」を玖珠町で開催した際、玖珠郡衆の勉強をした。玖珠衆12家といって、元祖は清原正高という。「三日月の滝伝説」で有名な都から左遷された中級貴族だ。詳細は大友氏関連の考察文に記述しているのでここでは割愛する。その玖珠衆の一家である森氏の当主は代々「七郎」を名乗っているのだ。そうであるならば大分県の森氏の総本家となる。我が田北家よりも家の歴史は百年ほど遡り、九百年と古く旧家も旧家である。

 ま、こういうことを生真面目に言うと時代錯誤か!と思われるのでやめておこう。

初めての夏休み

 小学校に上がって初めての夏休みが来た。あの通信簿をもらうときの、ドキドキ感や不安感、そして安堵感、また長期の休みの期待感など何と言っていいのか、さまざまな感情が入り交じった複雑な心持ちは今でも忘れない。それは仕事でクライアントのプレゼンテーションをして、その結果を知るときの感覚と共通したもので、いまだに味わっている。

 衛藤忠義先生から夏休み中の注意事項を聞いたあとは、絵日記が主な「夏の友」を渡されて午前中で帰宅。そしてまず母に報告する。通信簿を見て母が感想を言っているはずだが覚えていない。成績はごく平均的だったと思う。

  夏休みの1日は午前6時半からのラジオ体操で始まる。当時は永興神社の境内が会場だった。カタビラ(クマゼミ)のワッシャワッシャの蝉時雨の中を、小4のすぐ上の姉・容子や友達の岩田のよし子ちゃんや小野のひで子ちゃん等に連れられ、参加を証明するカードを首にぶら下げて行ったはず(よく覚えていない)である。小6の兄は新聞配達をしており、配達をすませて参加していたように思う。

  ラジオ体操から帰宅すると朝ご飯だが、家族10人そろって食事をしていた。人数が多いので丸い飯台がふたつに、ばあちゃんだけは独立したお膳だった。僕の夏休みの味と香りといえば、茄子やキュウリのぬか漬けや蒸し茄子である。

  当時、我が家の土地は南西に15坪前後と東に鶏小屋がある5、6坪、そして母屋(昔の蔵)の南隣に6畳・4畳半と台所の小さな家(浜崎に貸していた)があって、その南東に20坪くらいの庭があった(先述した織部医院に売却した土地)。その先は初瀬井路と道が通っている。その庭には野菜を結構植えていたし、イチジクやびわ、なつみかんの果樹もあり、旬になると少ないが家族で味わったものである。 「夏の友」は午前中、それも10時ころまで仕上げるようにしていたと記憶している。それも三日坊主で1週間くらいしか続かず、朝からセミが庭のびわの木で鳴き出すといても立ってもおられず、木登りをして手づかみにしようとした。あと数センチで捕まえられる所まで来ると、突然胸が高鳴りだし、手がふるえ、興奮状態になって結局取り逃がすのだった。そのうち兄からハエ捕り紙や鳥もちを竹の先に塗りつけて捕る方法を教わるのである。 

NHKの尋ね人と流行歌

 31年、「もはや戦後ではない」という言葉がマスコミで喧伝された。小学3年の3学期であったがよく覚えている。

 テレビが裕福な家庭に出回るころだったが、ほとんどの家はラジオしかないこの時代、「尋ね人の時間」と言う番組があった。戦時中に別れ別れになった家族や外地からの引揚者などの消息を流す番組で1日に何回かあった。その時にはやった歌が「岸壁の母」である。菊池章子が歌った。後年、二葉百合子がリバイバルでカバーしたが、一般的にはその曲の方が有名になってしまった。先述しなかった曲を挙げてみると、長崎の鐘、ニコライの鐘、麦踏、あこがれのハワイ航路、東京音頭etc

 見方はいろいろある(自分でも)だろうが、ある面、春日八郎と三橋美智也が三十年代の歌謡界の双璧だったと思っている。※今思えば美空ひばりは別格だった。

 話は飛ぶがある日、家族で流行歌手で誰が好きか、という話になった。姉たちは藤山一郎や岡本敦夫などの正統派の歌手を挙げた。

 そこで父に聞くと「とうさんは島倉千代子が好きやな」と言う。すると姉のだれかが「とうさん、いやらしい!」と言った。父は娘が何故そう言うのか理解できず困惑の表情だった…。僕は子供ながら姉の言葉がわかるような気がした。常日頃からあの女性特有の歌声と、ひっくり返したような裏声が同性として拒否反応を起こしていたのを知っていたからだ。今思えば父がかわいそうだ。

 もっとも当時、こんな姉の感情が理解できたはずもなく、今文章にしたらこういう表現になったということだ。

 いやらしいと言えば「とんこ節」と言うのが流行った。これも大人になって感じたことで既述した。

城南東町自治委員に上野 善一 氏

 難航していた城南東町の自治委員に上野善一氏が就任した。城南東町5組、電話は090−4355−1094

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