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大友氏四〇〇年「72」大友氏ゆかりの地を訪ねる6

NPO法人・大友氏顕彰会 理事長 牧 達夫

○南志賀氏の拠点・南山城跡 竹田市久住町白丹

 既に述べてきたように、志賀氏は、大友初代能直の八男、能郷を祖とする大友一族の名門である。志賀初代能郷の後は泰朝が継ぎ、弟である禅季が母深妙(大友初代能直の妻)から泊寺院主職、近地名地頭職などを与えられ、分家となる。禅季の後、本家泰朝の子朝郷が継ぎ、のち子が生まれなかったことから、大友一族一万田家の宣元が養子に入り、志賀氏の分家(庶家)を継いだ。

 その後、志賀氏の庶家は直入郡白丹に本拠を移し、南山城を築く。これによって、志賀氏の本家を北志賀、庶家を南志賀と呼ぶようになる。

 ところで、南志賀氏が白丹に南山城を築いた時期は宣元より二代後の重利の時代とも、応永(一四〇〇年前後)の重利を継いだ義天の時ともいわれ、はっきりしていないようだ。

 南山城跡は、竹田市久住町の国道四四二号線の久住郵便局辺りから産山方面に進み、途中広域農道に入って南下すると、山深い一帯に南山城跡がある。

 南山城は『南志賀記抄』では「城は南山(六〇七メートル)の南に構え、東西は谷深く川が流れて沼地。兵馬の通行はきわめて困難。また西南も谷深く、城の下は竹林が繁る。城地の形は琵琶を置いた如くである」と、その名城ぶりが記されている。

 だが、のち南志賀氏は天正十四年(一五八六)の島津軍の豊後侵攻に際し、「鎮隆は大いに戦ったがついに自殺に追い込まれる。また、父道運鑑隆は縄張寨に逃げ、弟義親も能く戦うも、常楽寺に逃れて自殺する。ここに南山城、ここに於いて廃した。」と豊後国史に記されている。

 先年訪ねた白丹の南山城は、落城後四三〇年の歳月が流れ、樹木が繁って城の輪郭をつかむことは難しい面もあったが、堅城としての地形とその名残は推察できた。いまもこの地には、本丸、二の丸、三の丸などの地名が残されているという。

 ところで、島津軍の侵攻で落ちのびた南志賀氏の一族は、大友氏滅亡後の岡藩時代、大庄屋として生き残り、幕末まで存続したという。

 竹田白丹一帯には、いまも志賀姓の方が多い。

○源頼朝ゆかりの久住猪鹿狼寺 竹田市久住町字本堂

 国道四四二号を久住高原へ進むと、源頼朝の「富士の巻き狩り」とのゆかりの伝承がある猪鹿狼寺が佇んでいる。

 この寺はかつて久住山の西南山麓にあったといわれ、天台宗延暦寺の末寺で、伝教大師が開基して大和山慈尊院と称していたという。

 鎌倉幕府の源頼朝は建久四年(一一九三)の「富士の巻き狩り」に先立ち、家臣の梶原景時、畠山重忠、仁田忠常らに巻き狩りの猟を学ばせるため、阿蘇大宮司の許に遣わせたという。

 彼らは、久住高原で巻き狩りの演習をし、多くの獲物を捕らえたが、一帯は殺生禁断の地であったので、頼朝は獲物の鳥獣の供養をさせたと伝えられている。頼朝はこの時、大和山慈尊院を久住山猪鹿狼寺に改めさせたという。

 寺はその後、久住山信仰の中心として栄えたが、天正十四年の豊薩合戦の兵火で焼失した。

 武家社会の時代、各武将は巻き狩りを行なっており、豊後の大友氏も国内各地で狩りをした。豊後領内の庄内、野津、山香、津久見、佐伯などの山場が主な狩り場だったようで、そこには待屋という狩り用の建物もあったといわれている。

 さて、現在の猪鹿狼寺境内には、かつて巻き狩りの演習に下向した畠山重忠の末裔といわれる埼玉県所沢市の片山真佐子氏の歌碑が、平成八年に建てられた。

 鎌倉の武士の狩しのびつつ

 猪鹿狼寺にえにし古を懐しむ

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地区青少協の講演会

 南大分地区青少年健全育成協議会(丸田幸夫会長)の後援会が9月8日南大分公民館であった。吉四六・おへま百笑塾の後藤敦子塾長が吉四六の姿で登壇。吉四六話で会場の130名の聴衆を笑わせていた。後藤さんは野津南保育園の園長が本職だ。

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荏隈いきいきサロン

 花隈いきいきサロンは8月22日、町内の子供たちを迎えて歌や輪投げを楽しんだ。得丸校長先生も参加する予定だったが急用で教頭先生が参加。

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マイウェイで夏祭り

 デイサービスセンター「マイウェイ」では、8月28日午後「楽しい夏まつり」を実施した。ヨーヨー釣り、おやつ探しゲーム、金魚&スマートボールすくいなどの昔懐かしい夜店の夏祭りを再現し、参加者約30名が順番に挑戦した。金魚などが釣れると、うれしそうに笑う姿が印象的だった。

 マイウェイは大分市大字永興846番地、☎︎543-4141

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