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大友氏四〇〇年「73」大友氏ゆかりの地を訪ねる7

NPO法人・大友氏顕彰会 理事長 牧 達夫

○入田氏の本拠・津賀牟礼城跡

 入田氏は大友四代親時の二子(五代貞親の弟)、泰親を祖としている。直入郡入田津賀牟礼城主で、歴代の中では大友家の加判衆をつとめたこともあるという。泰親の弟季貞も、同じ入田を本拠とした出羽氏の祖という。

 この入田氏と出羽氏の歴史は、不運というべきか、大友惣領家への反発と、衰退の構図でもあった。泰親、季貞の兄弟である貞宗は、兄の貞親から家督を継いで六代目当主となるが、のち建武の内乱という戦線にあった時分、長子貞順、次男貞戴を飛び越えて、幼少の五男千代松丸(のちの氏泰)に家督を譲った。

 弟の惣領の扶持に頼らねばならない立場になった長子貞順は、これに反発し、足利方と天皇方の戦である玖珠城合戦で天皇方について惣領家と対立する。この貞順に従って天皇方について玖珠城に籠城したのが、入田泰親と出羽季貞であった。

 長期に渡った合戦は最終的には、足利方(大友惣領家方)の勝利となり、この戦で泰親、季貞兄弟は戦死する。この戦は、いわば大友惣家と庶家の一部との確執の戦いでもあった。また入田氏の所領は、なぜか他の大友庶家と比べても小領であったことも否めない。

 その後の入田氏歴代の動きはあまりよくわからないが、九代親門が大友二〇代義鑑の時代、加判衆として登場している。そして引き続き義鑑側近の加判衆として仕えたのが、十代親誠(親実)であった。

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「大友二階崩れの変」

 一五五〇年、この親誠がからんだといわれる事件が、大友館で起こった。世にいう「大友二階崩れの変」である。事件は謎も多く、真相は明らかではないが、江戸期に書かれた戦記物によると大方次のようである。

 大友二〇代当主義鑑と長子義鎮(のちの宗麟)の間は、義鑑の正室(宗麟の実母)が亡くなって以来折り合いが悪くなったこともあり、後の妻は当主との間に生まれた末子の塩市丸を世継ぎにしたいとの強い欲望があり、この意を受けて当主側近の入田親誠が画策し、当主義鑑もついに宗麟を廃嫡する腹を固める。

 当主義鑑から宗麟廃嫡の意向を知らされた宗麟側近の奉行斉藤・小佐井・津久見・田口氏は猛反対の態度を取った。そこでついに乱が起こる。当主側は斎藤・小佐井氏を謀殺。このことを知った津久見・田口氏はいずれ自分達にも及ぶと考え、大友館の二階を襲い、当主義鑑、夫人、そして塩市丸に刀を掛けた。夫人、塩市丸はその場で死去、当主義鑑は二日後に死去したという。

 事件時別府浜脇館で静養していたという宗麟は、事件後家督を継ぎ、先ず塩市丸に世継ぎを画策したといわれる入田親誠の討伐を指示、追われた親誠は舅の肥後国阿蘇惟豊の懐に飛び込んで逃れようとしたが、逆に惟豊から、反逆者として殺されてしまう。

 事件は世継ぎにからむお家騒動といえるが、謎が多過ぎて本当の真相はよくわからない。事件後、入田氏の所領は没収され、親誠の子義実は牢々の身となるが、のち許されて筑前方面での勤めを命じられたという。その後、戸次氏の讒言により攻め立てられるが、津賀牟礼城に籠城して難を免れたという。

豊薩合戦での入田氏

 時が流れ、六ヵ国の太守、九州探題として権勢を誇り、南蛮文化交易により国際貿易都市として府内、臼杵が栄えた当主宗麟であったが、日向での島津氏との戦に惨敗して以降衰退の道を辿るようになり、島津氏はついに豊後侵略の機会を窺う。

 島津氏の戦略として、不遇は入田義実に家臣の新納忠元が親しく接近をはかる。入田氏にすれば、大友惣領家は父の仇であるという意識があったのであろうか。入田氏は島津軍を津賀牟礼城に迎え入れるなど、大友当主に叛いて島津軍の豊後侵攻を容易に進める画策を進める。それは他の南部衆である朽網氏、田北氏、志賀氏、戸次氏、一万田氏等の多くの武将が島津氏に内応するところとなり、府内は占拠されてしまった。一五八六年のことであった。

 思えば宗麟が二階崩れの変で家督を継ぎ、入田親誠を謀反人扱いにしたことが、三〇数年後、その子の義実が大友氏に叛き、二階崩れの変の後処理が大友氏崩壊の遠因になったことは歴史の皮肉であろう。

 入田義実は翌一五八七年春、秀吉軍が九州制圧に乗り出すと、島津軍が豊後から撤退するとき同行し、のち島津氏の家臣となったという。

○入田の郷を訪ねる

 今から十数年前、当時古国府歴史会の仲間であった佐藤文治さん・三宮恵三さん(いまはお二人とも故人)と入田を初めて訪ねたことがある。たしかその時節は、若葉が目にしみる季節だったことを想い出す。

 その後も一度訪ねたことがあるが、それでも今回訪れるのは八〜九年振りである。竹田の町なかから南にトンネルを抜け、さらに玉来の町を抜けてもう一度トンネルを過ぎると、四方を山に囲まれた緑の平地、入田に出た。

 今回は田んぼの稲が黄金色に染まった秋の季節であった。名水百選の竹田湧水群のひとつ、河宇田湧水があり、以前来た時と同じように水汲み客が押しかけていた。そこに車を置き、なつかしい中島河川公園へと歩いた。

 この公園に立つと、すぐ東方に清流緒方川が流れ、その後方に山がそびえる。幾多の歴史を刻んだ入田氏の居城、津賀牟礼城跡である。そびえると言ったが、津賀牟礼城は標高三四六メートルである。今回は時間がなく登らなかったが、いずれ竹田の友人と登ろうと思っている。

 南の彼方に祖母山系が望め、ここから近い前方の山が牧ノ城であろう。