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南大分マイタウン 本誌 第395号・平成31年2月1月

大友氏四〇〇年76 大友氏ゆかりの地を訪ねる10

NPO法人・大友氏顕彰会 理事長 牧 達夫

○戸次氏と戸次

 戸次は大野川右岸に広がる地域で、戸次地名は、ヘ(辺)ツ(助詞)キ(処)で、岸辺の土地という語源と思われる。

 平安末期、大神系戸次氏が、大分郡戸次一帯に勢力を拡げて戸次氏を名乗った。戸次荘の頃は一時、戸次、判田、竹中、松岡、吉野、東稙田に及ぶ広大な荘園であった。

 源平合戦後、源義経に加担した大神一族は、源頼朝により所領や支配地を取り上げられた者が多かった中、大神系戸次氏は辛うじてその難を免れた。

 時の戸次二郎惟澄は、戸次氏存続をはかるため大友二代親秀の次子重秀を養子に迎え、ここに大友系戸次氏となる。以来、戸次氏は大友一族の中で高い家格とされ、大野、由布院、国東と所領を拡げていった。

 弘安図田帳では「荘九十町」、領家は宜秋内院御跡、地頭は戸次太郎時朝、戸次次郎重頼、利根次郎朝親となっている。

 戦国期、大友氏の屋台を背負って筑前、筑後方面で活躍した武将が、立花城主の戸次鑑連(立花道雪)であった。鑑連は戦国期の九州を代表する名将とうたわれ、その裔孫が柳川城主の立花氏である。

 天正十四年(一五八六)の豊薩合戦において、戸次の鶴賀城で渡り合った城主・利光宗魚も戸次一族で、一族は大友氏が瓦解する最後まで奮闘した。

 戸次は徳川の藩政時代に入ると、臼杵藩領となる。かつての利光城主の家臣には大庄屋になった者もいるといわれている。また玖珠の清原一族・帆足家の中には、戸次に移り住んで大庄屋として戸次を治めている。この帆足家から、田能村竹田の弟子で南画家として活躍した杏雨が出ている。

○鶴賀城の攻防 大分市戸次利光

 かつて九州六か国の太守として君臨し、九州一の王国を築いたかに見えた大友宗麟(第二十一代大友当主)であったが、その後キリスト教をめぐり家内、家臣内に亀裂が生じている中、「戦いのない理想郷」の建設(無鹿)を目ざして日向遠征を強行し、島津軍に惨敗してしまう。天正六年(一五七八)のことであった。

 この日向合戦で大友氏は多くの有能な武将を失うとともに、国内外の諸氏による反乱が続出、大友氏は瓦解の様相を帯びる情況にあった。この頃、交流のあった織田信長から、中国(毛利)攻めの要請があったものの、とても出陣できる状況にはなかった。

 このような時代背景の中、勢いを増した島津氏は九州一円を席巻せんと、新興勢力の龍造寺隆信を島原に破り、天正十四年(一五八六)の七月には、大友氏の筑前における拠点のひとつ、宝満・岩屋城を落城させる。

 島津軍はついに同年十月末、義久が肥後から、家久が日向から豊後に侵入してきたのである。この時大友方では、宗麟から援軍を嘆願されていた秀吉の命を受けて、仙石秀久、長宗我部元親・信親父子、十河存保らの四国連合軍六〇〇〇余りの兵が府内に集結する。だが、大友当主義統の兵を合わせても、数万という島津軍の大軍とは数の上でも劣勢は否めず、また勢いや結束力、戦略上でも島津軍が勝っていた。

 この時分、南部衆の入田、志賀、田北、一万田、柴田氏ら大友一統の武将の多くが、島津側に内応して豊後への侵入を助勢しようとしていた。

 その中にあって、岡城主(竹田)の志賀親次と栂牟礼城主(佐伯)の佐伯惟定は、島津軍からの和平工作をはねつけ、城を死守してその名を天下に知らしめる。

 臼杵丹生島に領民とともに籠城した宗麟は、「国崩し」(大砲)を使って島津軍を撃退せしめ、なんとか面目を保つことができた。臼杵のまちは悉く焼き払われたが、城兵と領民はともあれホットしたであろう。

 さらにまた、女鶴崎城主吉岡妙林尼は、島津軍が攻めてくることを予測して奇略をめぐらすと、不意を食らった島津軍は崩れ散り、部将の伊集院・白浜両将は戦死し、多くの兵が死傷した。女城主、あっぱれの勝利であった。(吉岡妙林尼については別途記述したい)

 

 さて、豊後に侵入した島津家久二万の軍勢は、梓峠から宇目に入り、さらに三重郷の松尾山の砦に本陣を置いて、いよいよ府内制圧を目指す。

 十一月二十五日、家久はまず府内に近い鶴賀城(戸次・利光山)を攻略すべく降伏を迫ったが、城主利光宗魚は筑前に出陣中であり、城主の子統久は苦渋の決断をして若い家臣牧宗之助を、城主の末子という策で人質に出して時を稼ぐ。

 当時城を守っていたのは、戸次周辺地域と大野川下流両岸地域などの大友家臣の兵わずか七〇〇余りで、あとは参集した領民三〇〇〇余りであったという。

 鶴賀城主利光宗魚は、筑前の戦線からひそかに手勢三〇〇〇とともに鶴賀城に帰った。宗魚は油断していた島津軍に夜襲をかけ、人質となっていた宗之助の奪還をと攻め入るが、敗走する島津軍の兵によって斬られてしまう。

 いったん退いた島津軍は、十二月に入り一万八〇〇〇人という大群で鶴賀城に総攻撃をかける。すさまじい島津軍の攻勢によって、三の丸、二の丸はついに落とされたが、城兵が決死の覚悟で反撃に移ったため、夕暮時、島津軍は山を下りはじめた。だが、不運にも城主宗魚は、撤退に遅れた島津兵の矢によって櫓の上で絶命してしまう。天正十四年十二月七日のことであった。

 この鶴賀城の攻防によって島津軍は三千余、利光勢は千余りの戦死者を出したといわれる。その後も両軍の戦いが続く中、十二月十一日、大友方救援の報が入ると、島津軍は梨尾山より後方の坂原山に本陣を移して戦いに備えた。

旭町児童館でクリスマス会

 12月20日旭町児童館でクリスマス会があった。16家族21名が参加、児童は1〜4才児で、児童館職員の指導でゲームなどを楽しんだ。最後に長吉館長が扮したサンタクロースが登場して、全員にクリスマスプレゼントを渡すと大喜びしていた。

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荏隈サロンにサンタさん

 12月19日の荏隈サロンには、毎年恒例となった福徳学院高校の生徒さんがクリスマスケーキを持参して参加した。生徒たちはサンタクロースに扮して輪投げゲームなどに参加、サロンの人たちと一緒に楽しんでいた。

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古国府老人会 新年会

 古国府老人会「祇園会」(牧達夫会長)の新年互礼会が1月14日同町公民館で開催された。当日は好天にも恵まれ、約35名が出席。牧会長、保田町内会長のあいさつに続いて懇親会に入った。

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