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南大分マイタウン 本誌 第396号・平成31年3月1月

大友氏四〇〇年77 大友氏ゆかりの地を訪ねる11

NPO法人・大友氏顕彰会 理事長 牧 達夫

○戸次川合戦

 天正一四年(一五八六)十二月十二日、島津軍と大友一族利光軍による鶴賀城の戦いに続き、戸次川の戦いがはじまる。府内の大友義統軍と四国連合軍(仙石・長宗我部・十河氏ら)は鶴賀城の窮状を知り、秀吉からの「府内を動くな」との命令にもかかわらず、軍鑑仙石氏が出陣して、ついに十二月十二日未明、連合軍六千余の兵は府内を出て戸次川(大野川)左岸の竹中鏡城に布陣した。この時、鎧ヶ岳(豊後大野)城主戸次統常も、手勢を率いて馳せ参じる。

 鏡城における軍議でも、仙石氏は長宗我部氏らの反対を押し切って戸次川の渡河を決行する。渡河の様子をじっと偵察していた島津軍は戸次に上陸した連合軍に、一斉に銃弾を浴びせ、さらに島津軍得意の釣野伏せの戦術により大軍による攻撃をしかけると、大友連合軍は大混乱に落ち入った。

 その後戦いは一進一退の激戦となったが、こともあろうにこの最中、大友当主義統と軍鑑仙石秀久は、戦線を離脱して府内へ逃げ帰る始末であった。

 ここに及んで長宗我部氏、十河氏、戸次統常らは、潔く死を覚悟して獅子奮迅の活躍をするも、多勢に無勢、ついに壮絶な最期を遂げる。長宗我部信親(元親の嫡男)と戸次統常はともに二十二歳の若大将であった。

 十二月十五日、島津軍は大友一族の武将吉弘統幸が守る祇園河原(大分川)近くの祇園社(弥栄神社)に陣屋を置いていたが、これを突破し、府内に乱入して、大友府内の町を悉く焼き払ってしまう。

 ところで、戦線離脱した大友義統と仙谷秀久はその後どういう行動を取ったかである。義統は府内大友館から高崎城に籠り、さらに豊前の竜王城まで逃走している。秀吉は九州平定後、義統に豊後一国のみはなんとか安堵したものの、のち朝鮮の役での失策もあり、豊後国を没収してしまう。

 一方仙谷秀久も府内から豊前の妙見城に逃れ、さらに淡路島の洲本まで逃走している。秀吉はこの秀久の軍鑑としての責任放棄と愚行に怒り、彼の領国である讃岐を没収した。

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大友氏顕彰フォーラム 多彩な内容で開催

 NPO法人大友氏顕彰会(牧達夫理事長)では、1月26日「大友氏顕彰フォーラム」をトキハ会館で開催した。さとう樹一郎市長もゲストとして出席。

 基調講演として宮崎大学名誉教授竹井成美氏の「宗麟公の見たもの、聞いたもの、夢見たもの」では、その時代に日本に2台のオルガンが伝来し、1台は織田信長に、1台は宗麟に届けられたことなども紹介しながら、豊後が西洋音楽、西洋劇、西洋医術発祥の地であること、また宗麟の名で天正遣欧少年使節をヨーロッパに送ったことなどを紹介した。またパネルディスカッションでは、作家の櫻田啓氏と顕彰会のメンバー5名とで「大友氏の家臣団を語る」と題して活発な意見が交換された。

 アトラクションでは、観月ゆうじの歌「宗麟物語」「宗麟DANCE!」などが披露された。彼はミュージカル「宗麟の海」の主役だ。

 夜は大友氏顕彰会とNHK大河ドラマ「大友宗麟」誘致推進協議会の合同新年会が同会館で階を移して行われ、大勢の会員たちで賑わっていた。

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食育フェスタ大盛会

 12月15日南大分公民館で「食育フェスタinみなみおおいた」が開催された。約20組の親子が参加、前半は小学生たちは集会室で、クイズや紙芝居で食に関する勉強をし、後半から保護者のいる調理室で筑前煮とすまし汁作りに挑戦した。大分市食生活改善推進協議会中央西支部の皆さんがお手伝いした。小学生は保護者とプロの方がついているので、とても嬉しそうに調理に挑戦した。出来上った料理は全員でおいしく試食した。この時間がとてもなごやか。

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