© 2023 by Name of Site. Proudly created with Wix.com

​平成30年6月1日 第387号5P

大友氏四〇〇年「68」大友氏ゆかりの地を訪ねる2

大友滋賀豊後で初めて入った土地・豊後大野

 かつて大野郡 (おほのこほり) には、大野、井田、緒方、三重の各郷があった。

 大野郷には、大野・朝地・千歳が郷城で、宇佐八幡宮大宮司職であった大神氏が、宮司職を追われて豊後に入り、その勢力を拡大していった拠点でもあった。 緒方三郎ら大神一族は源平合戦で源氏の勝利に活躍したが、兄の頼朝と仲違いした弟義経の豊後入りに緒方三郎らが加担した(結果的には失敗)ことから、頼朝は豊後を直轄市とした。

 その後頼朝側近の大友氏初代能直(相模国大友郷の出)が一二〇六年前後、豊後國の守護職に補任され、大野郷地頭になる。能直の遺領は、妻深妙尼から子息の詫間、帯刀、一万田、志賀の諸氏に配分される。弘安図田帳では、郷三〇〇町となっている。このように大野の地は、大友一族が豊後に足を踏み入れた最初の土地であった。

 その後同じ大友一族の戸次氏が地頭となり、鎧ヶ丘を居城とした。

 井田郷は今の犬飼一帯が郷城で、弘安図田帳では、郷八〇町となっている。一時、島津氏の飛地所領の時もあったが、のち大友十八代親治が大友惣家の領有地とする。

 緒方郷は、緒方を中心 とした一帯で、平安末期では、前述のとおり豊後武士団の頭領・緒方三郎惟栄が緒方荘の荘司であった。いま緒方町には、惟栄館跡に記念碑が建っている。弘安図田帳では、郷二八〇町、地頭は大友氏三代頼泰で、大友惣家の土地であった。

 三重郷は、いまの三重町、野津町(現臼杵市)、宇目町(現佐伯市)が郷城という広さであった。

 古来三重郷は、豊後南西地方の交通の要衝であった。

 豊後国府と肥後国府を結ぶ肥後路と、日向国府への日向路の分岐点が三重にあり、市場地区にこの官道の「三重駅」が置 かれた。また小野市(宇目)にも、日向路の「小野駅」が置かれていた。

 弘安図田帳では、三重郷は一八〇町、地頭は肥後の守護であった安達泰盛であった。野津院は国領(六〇町)で、地頭は 大友一族の野津五郎頼宗であった。

 南北朝の頃から三重郷は、大友家の領分となり、吉岡、木付、吉弘、清田、柴田、広田らの大友諸氏が分拠した。

 天正十四年(一五八六)の島津軍の豊後侵攻では、日向路の梓峠を越えた三重が、島津軍の前線基地(松尾山)となった。藩政時代(江戸時代)、三重、野津は臼杵藩領となり、宇目地区は岡藩領であった。

神角寺・大友氏の入国に激しく抵抗した大野一族(豊後大野市朝地町島田)

​ 大分から国道四四二号線を野津原、温見を通過して神角寺入口から四~五キロほど上ると、神角寺に着く。

 標高七五〇メートルの山上にある神角寺は、五七〇年に創建され、のち三十六坊が建ち、大野川流域の仏教文化の中心として栄えた。

 ところが、建久七年(一 一九六)、世に言う「神角寺合戦」の兵火で、寺は焼失したという。この年、大友初代能直の命により、弟の古庄重能が豊後に先発隊として入国する。この時分の豊後の守護職は、まだ能直の養父 中原親能であったと思われるが、能直は親能のもとで既に実権を握っていたとも考えられる。

 中原親能は、京の公家の出で弟の大江広元とともに、早くから頼朝に従臣して頼朝政権を支え、鎮西奉行の職にもあった。 親能の養子である能直は、相模国大友郷(神奈 川県小田原市大友町)の出であり、やがて大友初 代として鎮西奉行、豊後・筑後・肥前三国の守護職を譲り受ける。しかし、能直は将軍頼朝の側近として京の朝廷との調整役や都の治安に奔走していたことから、豊後へは定住することなく代官に任せていたようだ。(私は 個人的には一~二度は豊後にも入国したのではないかと思っている...。) 一一九六年の神角寺合戦では、能直の弟古庄重 能が大友一族としてはじめて豊後に入国し、指揮を取ったと思われる。

 この古庄重能一行の豊後入国に激しく抵抗したのが、豊後一の豪族である大神一族の武士であった。この時分、大神一族の総大将であった緒方三郎惟栄は、源頼朝により流罪の身にあり、大将として指揮をとった武将は、一族の大野九郎泰基であった。

 大野、朝地一帯を治めていた泰基は、神角寺を本陣として指揮をとり、一族の阿南惟家が高崎山に、その弟家親は鶴賀城 (戸次)に陣を敷いたといわれている。古庄軍(大 友軍)は激しく抵抗する高崎山、鶴賀城での阿南兄弟を討ち、神角寺へと侵攻した。

 大野泰基が立て籠もった神角寺の戦は、豊後武士の意地をかけた激しい抵抗と、自然の要害により長期にわたる壮烈な攻防戦を繰り上げたという。だが、鎌倉幕府の威信をかけた大友(古庄)軍は、鎌倉や各国からの援軍も あって、ついに大将大野泰基の自決により、激しい合戦は終息し、大野一族は大友氏に降った。

 この戦いで焼失した神角寺は、その後応安二年(一三六三)に大友氏によって再興されたという。現在、国の重要文化財となっている。

 ところで、ここ神角寺は近年、しゃくなげの寺として有名である。しゃくなげの花を見ながら先端の丘に上ると、一挙に眺望が開け、大野一帯を一望、右手に竹田の山々、その後方に祖母、傾が望める。まさに、「国見の丘」の名にふさわしい丘といえる。

 この丘の一隅に、自決した大野泰基の墓が人知れず佇んでいる。この一帯を治めた武将泰基の潔さに対し、後世、かつての領地が見渡せる国見の丘に、供養地として建てたのであろう。

城南校区社協でも総会

 城南校区社会福祉協議会(岡村晰会長)の総会が、5月21日城南中央集会所で行われた。校区自治委員の皆さんなど多くの会員が参集して、質疑を行った結果、特に問題 もなく執行部の原案が可決された。

南大分校区青少協総会

 南大分校区青少年健全育成協議会(丸田幸夫会 長)の総会が、5月8日南大分公民館で開催された。見守りパトロールや冬のたこ上げ大会などの事業は今年も続けることが話し合われた。約40名が出席した。

豊府青少協の総会

 豊府校区青少年健全育成協議会(保田泰那会長)の総会が5月2日上田町集会所で開催された。小中学校長や一宮交番所長などをゲストに迎えた。質疑はスムースに進み、約一時間で終了した

大分の歴史と文化塾が開講

 牧達夫先生が講師をつとめる「大分の歴史と文化塾」が5月20日同町公民館で開催された。簡単な開講式の後すぐに講座が始まったが、約10人の受講生はみな歴史に興味を持っている人ばかりで、なかなか詳しく熱心だ。

古国府老壮会の総会

 古国府老壮会(牧達夫会長)の総会が5月20日同町公民館で開催された。

 保田町内会長と山崎神社総代会長がゲストで出席した。

 会員の減少で財源 が厳しいことが話題なった。

豊府校区社協の総会

 豊府校区社会福祉協議会(高屋享会長)の総会が5月21日羽屋公民館で開催された。来賓を入れて約50名が出席、議事はスムースに進行した。今年は役員の改選の年に当たり、退任役員と新任の役員が前に並んで、一人ずつあいさつをした。