南大分マイタウン 本誌 第400号・令和元年7月1月

大友氏四〇〇年81 大友氏ゆかりの地を訪ねる15

NPO法人・大友氏顕彰会 理事長 牧 達夫

◯天面山城跡 大分市河原内

 もうかなり前(十二〜三年前)、竹中の勝光寺に立寄った時、古戦場天面山城跡を訪ねたことがある。勝光寺から犬飼方面へ進み、犬飼町手前を右折するとほどなく、車で登れる山道があり、いまは森林公園となっていて、天面山(四〇三メートル)山頂付近まで続いている。

 往古から、天面山城にまつわる由来がある。天面山は、かつては豊後の豪族大神一族の阿南氏が居を構えていたといわれている。

 時が流れて天正十四年(一五八六)、家久率いる島津軍が宇目の朝日獄城に迫る。この時、城主柴田紹安(野津院の国人)は大友方南郡衆(入田・志賀・田北・一萬田氏ら)の島津方内応を耳にするや、家臣らの諌めも無視し、大友宗家を裏切り島津方についた。

 しかし、島津軍は大友宗麟にも近い紹安を安易に信用することはなく、紹安を天面山城に置き、彼の妻子を星河城(城主紹安・野津院)に人質として分離し、府内に近い要衝の城・戸次の鶴賀城攻撃へと向かう。

 こうした中、柴田紹安は妻子のいる星河城が兵火で燃え上がる様子を見るに及んで、島津方への内応を悔い、汚名返上とばかり一族郎党とともに天面山から討って出るが、島津の大軍を前に無念の涙を呑んだという。

 ところで、柴田紹安には異母弟である柴田治右衛門(宗麟の若き近習で後の天徳寺リイノ)がいた。島津氏が豊後領国に侵攻するに及んで、宗麟は上坂、秀吉に救援を嘆願する。その時宗麟はキリスト教名を意味する「天徳寺」を名乗ったともいわれている。大友家臣でその天徳寺姓を名乗らせたのは、なんと紹安の弟だけであった。彼は若い頃宗麟に近習し、その後キリシタンとなり天徳寺リイノを名乗った。

 島津軍の丹生島城攻撃には、宗麟は城に籠り数少ない家臣とともに守り抜き、なんとか面目を保つことができた。これには、城から討って出た、吉岡甚吉統増や吉田一祐、そして天徳寺リイノの活躍もあったといわれている。ついにリイノは討死するが、兄紹安とはちがった栄光の討死といえるかもしれない。

 天面山にはツツジ、アカマツ、コナラなどの花木が植えられ、頂上付近の満開の桜が見える風景には、とても古戦場跡という雰囲気はない。

 しかし、桜の花が風に散る頂上から、東に戸次川(大野川)、そして鶴賀城、西に霊山、本宮山、南に祖母、傾、北に鶴崎を望む風景は、ここがかつて要衝の山城のひとつであったことがわかるような気がする。

 今日、ここ天面山では毎年大野川合戦まつりの次の日に、地元の人々の手により神楽や出店などで賑わっているという。

大友氏顕彰会の通常総会

 NPO法人「大友氏顕彰会」の通常総会が、5月25日ホルトホールで開催された。ゲストに佐藤樹一郎大分市長、磯崎陽輔参議院議員、県議、市議などを多数迎え、議事に入る前に「大分県行進曲」「大分市歌」を歌った。

 総会資料が42ページもあるもので、総会では主なものだけを読み上げて、詳細は帰ってから読んでくださいということに。議案は特に問題もなく、執行部の原案通りに可決された。

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永興でひまわり植え

 永興町内会(早田久豊会長)では、6月16日セルモ玉泉院の前の永興花壇にひまわりの苗の植付けを行った。子供会と保護者約35名で一気に植えてしまった。小学生でも人数がそろうとバカにできない。同町内では数年前に大分市の花壇コンクールで入賞したことがあるので、今年も花が咲くのが楽しみだ。

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セルモで大感謝祭

 セルモ玉泉院南大分会館では、5月25日大感謝祭を実施した。豊後潮太鼓、変面ショー、二胡の演奏会、終活セミナー、入棺体験、玄関脇での焼鳥や焼そばの実演販売もあり、多くの人出でにぎわっていた。

 特に入棺体験は若い人達にウケていたようだ。互助会入会キャンペーンや先着百名食パン一斤プレゼントもにぎわった

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